自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

老けない男

2023年6月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 コロナのせいで疎遠になっていた兄と昨日、しばらくぶりに話をした。兄は父が死んだあと、千葉県にある自分のマンションを人に貸し、東京の足立区の実家で母と同居するようになった。18年半も前の話だ。兄弟で話し合って決めたというより、少し精神が不安定になっていた母のため、独身で身軽だった兄が率先してそうした。そのころ私はメキシコに住んでいて、2年後に帰国したときは当たり前のことのように受け止めた。二つ上の兄は当時、45歳で、まだ勤め人をしていたが、64歳の現在までずっと母の面倒をみてくれている。

 コロナ下、私はときどき母を訪ねたが、社交的ではない兄とは玄関口で会い「おお、久しぶり」と短く挨拶を交わす程度だった。が、昨日はロサンゼルスか ら一時帰国している娘を連れていき、丸いケーキをみやげにしたため、洋菓子が好きな兄が珍しく談笑に加わった。「こうすけおじさん、全然年取りませんねえ」。娘にそう言われた兄は「えっ、年取ったよ」と返したが、「だって、髪の毛なんか真っ黒じゃないですか」と言われると、「でも、最近、増えてきたよ」と髪をかきあげた。生え際がわずかに白いが、白髪はないに等しい。「そんなの全然。うちの父親なんて、ほら」と娘は私の方を向いた。私はここ数年で白髪が一気に増え、ごま塩頭になっている。言われてみれば、兄は髪の毛だけでなく、全体に老けていない。玄関口で会うときは、痩せているので、しょぼくれた印象があったが、笑顔で話す姿にはいい言い方をすれば世間ずれしていない、悪い言い方では若輩者といった雰囲気をまとっている。

 「こうちゃん、ストレス、全然ないから」と私が思ったままのことを言うと、「そんなことないよ。俺だってストレスあるよ」と言い返す。何かと聞いてみる と、コンビニやスーパーのレジで、前に支払いの遅い人がいると、イライラするという程度のことだった。「そんなの、ストレスじゃないよ」と笑い、話題は流れたが、帰宅し食卓を囲んだ記念撮影を見て驚いた。写真の中の兄は青年のようで、対する私は明らかに貫禄のあるオヤジになっていた。兄は徹底した合理主義者である。中学までは当時の言い方でツッパリグループの端くれだったが、両国にある日大一高に補欠で受かると、柔道を始め、突如真面目になった。千葉県にある日大の生産工学部土木工学科に進み、4年で卒業すると、20人ほどの不動産開発のベンチャー企業に就職した。のちにぐんぐん大きくなり、いまはグループで9000人の社員を抱えるスターツという会社だ。

 東大教授をしていた叔父や、まだ現役だった技師の父が「大手に入ったほうがいいよ」と清水建設熊谷組を紹介しようとしたが、「自分で探すからいいよ」と断り、1982年にはまだ珍しかったベンチャーを選んだ。聞いてみると、「大手の建設会社は日大だと現場監督止まりだから」という理由に加え、コネに頼るとあとが煩わしいというのもあったらしい。「現場監督止まり」という言い方をする以上、出世したいのだろう。だったら、そんな不文律に逆らい、中で頑張ればいいではないかと私は思ったが、それは綺麗事であり、現実的ではないという考え方をする人間だ。その辺りが合理的と言える。波風立てたり、逆らうのを嫌う。

 スターツに入ると無遅刻無欠勤で働き続け、似合わない営業から出版部門まで任され、それなりに出世した。

 だが30代に入ったころ、当時の年金受給資格だった25年間勤め上げたら、仕事をやめると言いだした。誕生日前の22歳で働きだしたので47歳で引退するという。 父も含め周りは「また、こうすけがおかしなことを言っている」と笑って聞き流したが、25年が過ぎた日にピタッとやめた。 それまで、親は早く結婚しろと何度も見合いをさせたが、相手がいくら乗り気でも、あいまいな返事をして逃げ通した。相手にしたらえらい迷惑だが、本人にとってはそれが一番ストレスが少なかったのだろう。その辺りも合理的だ。

 兄は会社で部長クラスになっているのに、正月休みや夏休みによくバイトをしていた。学生が泊まる民宿などでの布団敷きなど雑用だ。スキーや地方を歩くのが好きだったので、一石二鳥だという。 のちにわかるがそれらもすべて、47歳で引退するための資金稼ぎだった。結婚を拒んだのも、「家族ができると計画が狂うから」ということだ。島根県の旧家の娘さんを紹介されたとき、「結婚して資産が増えるじゃないか」と冗談半分にぶつけたら、「増えても減っても、計画が狂うからなあ」という返事だった。要は不確実な要素を入れたくないのだ。だから人とも関わらない。 母との暮らしでは彼女の病院や買い物の送り迎えなど最低限の関わりに徹している。朝は4時に起きストレッチを済ますと2時間ほど散歩して、昼は正午ぴったり、夜は7時ぴったりに母のつくる食事をとり、10時に寝る。合間に簡単な筋トレをし、ひっきりなしにチャンネルを変えながらテレビを見て、軽めの世界史の本などを読む。

 規則正しい1日を終え床につくとき「幸福を感じる」という。昨日、彼の口から 「幸福」という言葉を初めて聞いた。友人は時折訪ねてくる近所の同級生ひとりだけ。昔から人に好かれたが、自分からは行かないので、みな次第に疎遠になっ た。

 彼が若い理由はそんな生き方にあるのか、と思ったりもする。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)