自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

虫も殺せぬ男のハチ受難

2025年9月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 お盆恒例の沢登りに今年も出かけた。いつもと同じ、10歳下の沢登り名人、松原憲彦(のりひこ)との旅だ。秋山郷を南下し、新潟県境の長野県栄村から佐武流山(さぶりゅうやま)(2192m)を目指した。

 初日は林道を歩き、沢に降りて野営した。昨年は北アルプスの黒部源流で、落石が私の左足に当たり骨折し、下山せざるを得なかった。今年は心身に耳をすませ、無理をしないつもりだった。

 野宿に適した河原に荷を置くと、松原は「もっといいテン場(泊まり場)がないか見てきます」と言って沢の奥へ消えた。

 暑い日だった。私は沢の中で股まで水に浸かったときに濡れた地図を乾かした。そして、南米のチリに暮らす長男(34)の真似をして瞑想をした。

 目の前の淵に結構大きなイワナがいたので、久しぶりに釣りをしようと、針と糸を取りだした。

 餌はオニチョロと呼ばれる川虫を使うが、いくら石をひっくり返しても見つからない。釣りが高じて沢登りを始めた郡山の友人、斎藤明は大きな網で沢底をザクザクすくい、川虫をまとめてとっていたが、そんなものはない。

 ふと見ると、干していた地図の上にトンボがとまった。ギンヤンマを小ぶりにしたサイズだ。日よけ帽をさっと被せると、あっさりつかまった。ビニール袋に収め、針と糸の準備にとりかかった。

 釣る段になり、袋からトンボを取り出そうとすると、ガサガサと羽をばたつかせた。オニチョロの場合、小さな口に針を刺し、体に通していくが、トンボの場合、どうすればいいのか。

 嫌だなと思った私はトンボを逃がした。トンボは何事もなかったかのように飛び立ち、川面(かわも)を滑空して消えた。

 あんなトンボがなぜ殺せないのか。そう思っていると、松原が戻ってきた。その話をすると松原は「あっはあ、でも、トンボなんかで釣れますか?」と笑った。松原は沢登り名人だが釣りはしない。そんな暇があれば酒でも飲んでボーっとしていたいと言う。

 結局、チーズたらを餌にしたが、食いつきもしなかった。

 次の日、私たちは沢を登り、藪を漕ぎ、国境稜線に出た。そこから佐武流山を往復し登山道を下り、同じテン場を目指した。

 膝が悪い私は下りになると少し遅れる。「まっちゃん、先に行っていいよ」と言い、別行動にした。

 源流部で沢を一本間違え、すぐに水が涸れたため、私たちは午後の5時間ほど水を飲んでいなかった。暑い午後、熱中症が心配になり、私は長袖のシャツをズボンの外に出し、袖をまくり、胸もはだけた。体を冷やそうと思ったのだ。

 ようやく沢に着き、水をガブガブ飲むと、ひとり河原に腰を下ろした。

 すると、私のズボンを這う、一匹の蟻が目に入った。岩の上に落とすと、蟻はせわしなく歩いていった。

 鳥に助けてもらった蟻が猟師の脚に食いつき撃たれそうな鳥を救う童話を思い出した。そして、最近読んだ『徳の研究』という本で、地球上の蟻すべての重さは、全人類の体重の何倍もあるという話も浮かんだ。地球の主役は蟻だという話だった。

 テン場にいる松原に合流するため、前日歩いた河原をまた登った。そろそろ着くかな、というころ滝が出てきた。暑さでメガネを外していた上、夕暮れの沢は暗く、「こんなのあったかなあ」と一瞬思った。

 老化なのだろう。私は前の日にその滝を登ったことを忘れていた。右側のブッシュの方が安全だろうと、木を掴んで急な斜面を登りはじめたとき、左の手の甲にひどい痛みを感じた。「アザミか?」と手を引っ込めたら、右手、腰、胸、いたるところに激痛が走った。ハチの大群がブーンとうなり私を取り囲んでいた。

 暑さでシャツをはだけた部分を集中的に狙ってくるが、シャツやズボンの上からも刺してくる。太い注射を何本も刺されたような痛みだが、急斜面で逃げられない。

 こういう段になると人間は馬鹿力が出るのだろう。木を掴んで急いで登り上の平地に立つが、青黒いハチの群れは追いかけてくる。手の甲に群がるハチを叩き落とすが、体に弾力がありなかなか死なない。手の甲をこするようにして殺しながら、細い尾根を降りてもまだ追ってくる。

 水に飛び込みたいと思うが、斜面はかなり急だ。最後はターザンのように木から木へぶら下がり、どうにか河原に着いた。

 土の中にあるクロスズメバチの巣を踏んだようだった。何も語らないが、ハチはみなものすごく怒っていた。

 テン場に着くと、松原が「まず一杯」と冷やしたビールのロング缶を差し出した。「ハチに刺された。水をくれ」と言ったが、喉が詰まって、うまく飲めない。襲撃から10分がすぎたころ、気分が悪くなり、そのまま横になった。

 松原に地下足袋を脱がしてもらい、防寒下着に着替えるとブルブル震えだした。すぐに激しい便意を催し、なんとか起きて用を足した。ただ事ではないと気づいた松原が、私が沢に落ちないよう支えてくれた。

 再び横になると、喉がつまり、胸を踏みつけられたような圧迫があり、全身の痙攣が始まる。

 「まずいですね、救援、呼びに行きますよ」。松原がそう言ったときは、自分でも、死ぬかもしれないと思った。

 直後、半身を起こし水を飲むと、3度たて続けに吐いた。昼から何も食べていないのが幸いしたのか、大量の水と泡が出るだけで、喉をつまらせずにすんだ。

 アナフィラキシーショックだ。99年ごろ南アフリカで一度、ミツバチに刺されている。が、今回は、あとで数えたら34カ所も刺されていたので、毒の多さでアナフィラキシーに陥ったのかもしれない。

 吐くと楽になった私は、「もう大丈夫だ」と言って眠りに落ちた。全身がしびれ、モザイク状の蕁麻疹が出ていた。夜半になり、ひとり目覚めると、刺されたところがひどく痛かっただけで、もう回復していた。

 長年沢登りをつづけてきたが、初めてのことだった。

 翌朝、ハチの襲撃直前に思い出した蟻の童話の話をすると、松原は「それ、こじつけじゃないですか」と言った。声が少し弾んでいた。

 

● 新刊紹介

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特派員の肩書きもミッションもなしーー
23年ぶり、アフリカにとっぷり浸かってみた!
紙袋ひとつ持って「旧友たち」のもとへ
今ひとたびの、灼熱大陸清貧一人旅。

南米、ヨーロッパ、アフリカ、ヒマラヤのダウラギリまで、世界各地を巡り歩いた特派員が、約25年ぶりに再びアフリカの地に降り立った!
今回は、あえて目的も計画も持たずつとめて身軽な旅。
毎日新聞連載を書籍化。


● 関連書籍

📕『差別の教室』(23年、集英社新書)

📕『絵はがきにされた少年』(05年、集英社、開高健賞受賞、20年に新版)