自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

羨望、嫉妬と情熱と

2020年3月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

「お寺に入ってから、一切の比較対象から下りる、というふうになりました」

 先日、長野市で再会した小山さんがぽろっとそんなことを言った。何度か挨拶したことはあるが、じっくり話すのは今回が初めてだった。

 いま69歳の小山芳一さんは営業マンを経て40代で独立し、妻と二人で市内で喫茶店を開いていた。料理は妻が、コーヒーは小山さんが担当し店は繁盛していたが、妻も次第に長時間労働がきつくなり、2年前、思い切って店を閉じた。

 67歳で引退した小山さんはその5年ほど前から、檀家をしている市内の長谷寺に通い、厠から廊下までをピカピカに磨く無料奉仕をしてきた。そんな中、少しずつ、意識が変わったそうだ。

 「店をやっていたときは、他の店との比較とか。たとえば『あの店はコーヒーがおいしい』と言われると、実際に行きはしないけど気にしていたり」

 店を始める前は、小学校から大学までの科学実験の教材を売る営業マンだった。ノルマが結構きつく、いつも競争し、人と自分を比べていたという。

 「でも、お寺や自然の中にいて、なんて言うのかなあ、ふっと、『比較されることもなく、比較することもせずに生きていこう』と思ったんです。そしたらすごく楽になりました。62、3のころです」

 お坊さんに何か言われたとか、悟りを開いたというのではなく、少しずつそうなっていったらしい。

 小山さんは私より一回りほど上だが、穏やかで、満たされたようないい顔をしている。確かに、ある領域に達した人というふうに見えなくもない。私はそんな表情が少しうらやましかった。

 というのも、私などは完全に「比較の奴隷」だと思うからだ。

 生い立ちも影響している。私には2歳上の兄がいて、小さいころから何もかも「二番」の次男だった。東京の巣鴨にいた父方の親戚が裕福で、よくおもちゃをくれた。三越の包装紙に包まれた箱をもらうとき、私はいつも興奮していたが、同時に中身を見る寸前まで緊張していた。

 兄のものに比べ、自分のは必ず2割方小さかったからだ。例えば銀色の拳銃も兄のは二段式になっているのに、自分のは単式の普通のコルトだった。大きなブリキの自動車も、兄のは黒塗りのキャデラックで、自分のは10cmほど短い赤のムスタングだった。

 嬉しいことは嬉しいのだが、ふと気づくと、私は兄の方のおもちゃをじっと見つめていた。

 三つ子の魂百までというが、物心ついたころから羨望癖、比較癖がついた私はなかなか、そこから抜けきれない。つまり大人になりきれない。例えば、本がものすごく注目を集めている人や、賞をとりすっかり脚光を浴びている知人などを目にしたとき、手放しで喜べない自分に気づき反省する。どこかで彼ら、彼女らと自分を比較しているのだ。

 面白いもので、本当に原稿のうまい人、いいものを書く人に対しては、そんな気にならない。例えば、私が心底この人はうまいと思っている作家の関川夏央さんの場合、むしろ、もっと読まれるべきだ、もっと売れるべきだと思いはするが、自分と比べ卑屈になったりはしない。

 幼いころ、私は兄が大好きだった。おそらく人生の中で一番好きだったろう。いつも兄の顔を見て、兄のすることを少し低い位置からうかがっていた。兄をうらやんだり、兄と自分を比べ、卑屈になっていたわけではない。

 ただ、すでに3歳のころにはっきりとあった羨望や嫉妬は兄に対してではなく、親戚からの贈りもの、つまりよその人からの評価に対してだった。と、今にして思う。

 背丈もさほど違わない子供なのに、どうして兄が100で自分は80なのか。その不当、不正義に対し私は憤っていたのだ。

 兄が悪いのではない。悪いのは兄と私を差別する社会だ。とそんな言葉で考えたわけではないが、ものをもらうときの私の緊張は、そのあたりから来ていた気がする。

 関川さんが評価されれば嬉しいが、そうでもない人が必要以上に評判になると自分の卑屈さが顔を出すのも同じ理屈である。

 人に比べ自分は正当に評価されていないという状況にさいなまれている、ということだ。それに気づかないと、必要もなく他者を恨んだり、さげすんだりするようになる。小山さんはそういう人間の持つ悪感情から抜け出すことができ、楽になったという。

 ただし、彼には一つ困ったことがある。登山からヒマラヤ遠征を経て、北米でのバイク、自転車縦断と、折を見てひとり旅を続けてきたが、どういうわけか、今は時間があるのに、旅に出られないでいる。

 「年を食って一つだけ言えるのはね、内側の情熱が下がったということです。それがよくわかりますよ」

 次は南米大陸を自転車で走る予定で、資金もトレーニングも万端なのに、出る気になれない。

 「行くぞ行くぞってのはあるんですけど、ここ2年、情熱が多分なくなっているんだろうなあって」

 人と比較しなくなる。それはそれでいいことだが、もしかしたら、その悪感情とともに情熱をも失ってしまったのではないか。

 逆に言えば、情熱には、自分のことを他者が正当に認めてくれないという思い、環境が必要なのか。つまり、嫉妬と情熱は、抱き合わせなのかもしれない。いずれも愛につきものの感情だし。

 

●近著

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