自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

イラつく相手は自分の子

2020年1月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 12月1日、日和が悪かったわけでもないのだが、私は朝からあまり機嫌が良くなかった。

 道すがらこんなことがあった。家族で駅に向かい、廃墟となった都営住宅の脇を通りかかったとき、27歳の娘が「写真を撮りたい」と言い出した。彼女が写真を撮っている間、私たちは誰も住んでいない都営住宅の敷地内で待っていた。すると、私たちのそばを通った初老の男性が「何やってんだ」と少し大きめの声をあげた。連れの女性への問いかけとも、独り言ともとれる口調だった。ただ、語調から、好奇心というより、どこか私たちを咎めているふうに聞こえた。娘が撮影を終えたので、私はその男女を追う形で敷地の外に出た。男性は私がそばにいるのに「何をしていたんですか」とは聞かず、信号が変わるのをじっと待っていた。

 私たち一家は彼らと反対の、駅の方へ向かったが、私は心の中で悪態をついていた。「何をやっていたっていいじゃないか」「じゃあ、あんたは何をやっているんだ」

 よくない兆候だった。こんなふうに考えるのは、被害妄想的気分が出始めているときだ。

 さて、何か食べよう。私は気分を変えようと駅に向かった。どこもかしこも味が濃いラーメン屋、新しいのに古いふうを装ったカフェなど、どこも入る気がしなかった。それに繁華街でもないのに人通りが多いのも私をイラつかせた。そんな気分は表に出さず商店街へ足を向けると、最近できた格安の八百屋が賑わっていた。キャベツが98円だったので、私はひとり店に入り、それと餃子を作るためのニラを手にレジに立った。「大根が安いよ」と声を張り上げながらレジを打っていた60代と見られる女性に代金を払ったが、袋がない。見ると、レジの脇に束になった袋がぶら下がっているので、一枚取ろうとすると、レジの女性が語気を強め「あ、袋、取らないで、こっちで取るから」と言うなり、私が手にしようとしていた袋を奪い、キャベツとニラを放り込んだ。「あ、そうなんだ」と返事をしたが、外にいた娘に「なんであんな言い方をするんだろう」と愚痴をこぼした。すると娘は「袋は自分で持ってくるんじゃないの」と言う。なるほど、エコバッグが原則の店なのかと思うが「あんな言い方はないだろう」と言うと、「そのおばさん、機嫌が悪かったんじゃない」とさらっと応じる。

 気をとり直し、駅近くの寿司屋に行くと「準備中」の札が下がっていた。仕方なく駅の反対側の回転寿司に入り、70代と見られる白髪の板前さんの前のカウンターに座った。

 「すみません」と声をかけ、「マグロとえんがわ2枚」と注文したが、なぜか板前は「はい」とも「はいよ」とも返事をしない。それでも皿はきちんと出してくるので、聞こえてはいるようだ。皿を会釈して受け取っても、向こうはこちらの目を見ない。いわゆる頑固な職人かと思い、私は穏やかで低姿勢な人のふりをして「アナゴお願いします」と若干丁寧に注文するようにした。

 食べ終わったころ、息子が注文した「サメカレイ」をまだ出していないと気づいた板前が「まだ来てないね」と問い、誰にともなく、こう言った。「そこの紙に書いて注文してくれなきゃ。忘れっちまうんでね」。私はとっさに「あ、すみません」と答えたが、少しカチンときた。

 私は通常、寿司屋で最初の2、3品は決めていても、あとは気分で1品ずつ頼む方なので、紙にまとめて書くことなどできない。それとも1品ずつ紙に書いて目の前の板前に渡すのが流儀なのか。それで板前が返事もしないのなら、店と客のコミュニケーションはゼロになる。そもそも、注文を忘れないのが板前ってもんだろう。

 私はそんなことをグジグジ思う自分が嫌になり、店を出たところで娘にこうこぼした。「年を取れば取るほど、イラ立ちが増えるのかな。嫌だなあ」

 すると娘は「あんな年でバイトしなくちゃならないからじゃないの」と板前をかばった。板前は頭に「おせち受付中」という紙製のハチマキを巻き、ネタをシャリの上に載せるだけの握り方も素人くさく、言われてみれば確かに、高齢者のアルバイトのように思えてきた。

 その晩、娘に「メタ認知」をすすめられた。要は自分を一つ高みから見下ろし、自分の感情を理性でコントロールすることだ。誰もが長年やってきたことじゃないかと思ったが、常に意識しているかどうかで違うのかもしれない。

 手近にあった昭和49年版の『新明解国語辞典』で認知を調べたら、こうあった。<自分がその子の父(母)であることを認める法律上の手続き>。昔のドラマで愛人が男性に「認知してよ」と迫るときの認知で、英語ではこれをrecognitionという。認知症認知療法と今では別の意味、英語ではreをとったcognitionの方で使われることが多く、愛人が迫る認知は影を潜めた感があるが、私にはそちらの方が響いた。

 12月1日に私を襲ったイラ立ちはいずれも私の子、つまり私の中の誰かから発せられたのだ。「何やってんだ」の男性も、八百屋の女性も、板前も私の感情を映していた。彼らにはそれぞれ内面があり私の知ったことではない。でも、彼らが私に響いたのは、あくまでも受け止める私の問題なのだ。彼らは私の子、私の一部なのだと認めれば、腹を立てる必要はない。腹を立てるべき相手は私自身ということになる。

 そう意識してみると、日々の被害妄想が前よりも緩んだ気がする。

 

●近著

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