自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

立ち上がってきたアフリカ

2020年7月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 私の中のもやもやが少し晴れてきた。最近、アフリカのことをよく考えるからだ。

 4月20日ルワンダ人のモーリスから連絡があった。彼は妻と10代の娘2人と妻の実家があるベルギーの街に暮らしているが、このときはルワンダから電話してきた。

 母親に会うため、ひとりで首都キガリに帰ったところ、新型コロナウイルスのせいで国境閉鎖となり、ベルギーに戻れなくなったという。

 今はネット回線があれば世界中どこへでも無料で電話ができる。彼は暇だったのか、私に電話してきて、「俺たちはもういい年だよな。このルワンダで貧しい子供に教育を受けさせる活動をしないか」と言いだした。

 その話は10年前に、ベルギーの彼の家で聞いたので、新しくもなかったが「よし、やろう」とは言えなかった。

 第一に私には別の夢がある。思いつきから始まった話だが、中国語の勉強のため中国に行くという目論見だ。コロナのせいで先はまだ見えないが、人の移動もある程度回復すれば、できないことはないと思っている。それに、アフリカに移住するなら、友人の多い南アフリカを考えていた。

 私がルワンダに通ったのは1994年の大虐殺直後のことで、つらい思い出の多いあの地に住みたいと思うことはほとんどなかった。

 モーリスの場合、自分の国だから身内や友人も多いが、私にはなんのゆかりもない。あるとすれば、このモーリスくらいなものだ。「貧しい子供のための教育」などと言われ、心が動くほどこちらもナイーブではない。

 そもそも、人助け活動に興味がない。たまたま出会った人が本当に困り果て、その人に巻き込まれ、止むを得ずなんとかしなければと思うことはあっても、はなから不特定の人を支えようという漠然とした思いなど私にはない。

 考えてみれば、私がアフリカ大陸で最初に助けた相手がこのモーリスだった。「助けた」というと、あえてそうしたように聞こえるが、ある因縁から彼とつき合うようになり、結果的に助けることになったということだ。

 J・M・クッツェーの小説『マイケルK』の主人公が一宿一飯の恩を受けた相手から「人は助け合わないと」と言われ、考える場面がある。

 人を助ける? 自分は人を助けるだろうか。わからない。助けるかもしれないし、助けないかもしれない。それは、その時になってみないとわからない。

 当時、英語で読んだこの言葉が私には深く残り、今でも暗唱できるほどだ。

 モーリスとは、私が初めてルワンダを訪れた翌日、たまたまラジオ局で知り合い、当時内戦や虐殺事件が頻発していた国内各地を共にまわった。ところがある晩、彼は私が借りていた車で甥っ子とドライブをし、路肩から車を落とし大破させる事故を起こした。

 私はその後始末のためキガリに2週間残り、最終的には自費でカローラの中古車を一台日本から輸入し、モーリスにインド洋のモンバサからキガリまで運ばせ、持ち主に返すという私にとっては大事業をする羽目になった。

 それが縁となり、私はモーリスにコンゴ民主共和国の内戦取材などを手伝ってもらった。だが、2、3年後には彼に貸した借金や、落ちつきのない彼の性格にも悩まされ、最終的には絶交し、10年ほど前に彼が謝罪の連絡をしてきたため、よりをもどした格好だった。いろいろあったが彼のことが好きなので、つかず離れずの関係なら悪くないと思っていたが、一緒にビジネスめいたことをする気はない。

 だからやや強い口調で「そんな気はない」と断り、ついでに「よくも人助けなどと言えたものだな。そんな暇があれば、まずは俺に金を返せ、俺を助けろ」と突き放した。彼は私の剣幕に気圧されたのか、「俺はただ、お前とルワンダで何かやりたかっただけだよ」とひとりごちた。

 それから数週間がすぎ、たまたまルワンダから一時帰国している旧知の日本人女性をインタビューすることになった。彼女から現在のルワンダの様子を聞きたいと思ったからだ。

 彼女に会う朝、その準備もあって、15年前に出した自分の本『絵はがきにされた少年』の中のルワンダを舞台にした二篇を読み返した。

 すると、その短い作品からフワーッと当時のキガリの風景、雨だれ、緑の森の湿り気が匂いたってきた。丸3日もかけてインタビューした老人を孫やひ孫が取り囲み、熱心に耳を傾けていた様子や、半径1mほどの小屋に暮らす老人の姿が蘇ってきた。

 ツチとフツ。言葉も文化も習慣も違わないのに、ベルギーの植民地政策も手伝い、くっきりと二つに分かれた人間集団。その隔たり、差別のせいで、わずか3カ月で少なくとも50万人という史上類を見ない虐殺が起きた。

 私は当時、ツチとフツの違いは「部族」だというほとんどのジャーナリストが抱いていた便宜上の呼び方にあらがい、その違いの根拠、起源を必死の思いで探ろうとしていた。その途上、コンゴの奥地で、少年兵が言い放った「僕はフツの農民だ」という言葉に、ひどく感動した。虐殺の加害者である「フツ」を名乗るのが一種のタブーだったからだ。

 二篇の原稿からそんなことを思い出すと、私の中に「まだ、途上じゃないか!」という言葉が現れた。

 あの国に戻り、解けなかった謎を解かなければ。転勤を理由に投げ出した重いテーマに、もう一度立ち返りたいと思った。結構本気だ。

 

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『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

スーザン・ソンタグとの再会

2020年6月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

ちょっと不思議なことがあった。

 今年の正月、私はかなり具体的な初夢をみた。起きてからしばらく残っていたので、私はそれを、フェイスブックに投稿した。

 夢をソーシャルメディアで書くことなどまずないが、誰かがその意味を教えてくれる気がして書いてみたくなった。

 <初夢は70代のスーザン・ソンタグと意気投合し、この人のために何かしてあげたいと思っている夢。ずいぶん前に読んだ人だが、なぜ今頃。途中で止めた「火山に恋して」に何かヒントがあるのか。してあげたいというのが、おこがましい感じで嫌だなと思って目が覚める>

 友人数人からは「自分も昔、読んだ」といった反応があっただけだった。

 ソンタグは1933年生まれだから、日本で言えば昭和8年。ちょうど私の母と同い年で、生きていれば86歳だ。東欧系ユダヤ人子でニューヨーク生まれ。幼い頃から読書家で、15歳で批評の面白さを知り、シカゴ大などいくつもの大学で哲学や文学を専攻し、30代には売れっ子の批評家になった。戦場ルポ的な戦争論から長編ロマンの小説まで、寡作ながら、あらゆるジャンルの文章を残した。存命中は「米国を代表する進歩的文化人」、あらゆる差別にあらがうフェミニストとして世に知られたが、亡くなるとずいぶん早々に忘れられた。

 と、書いてはみたが、私が彼女の作品に出会ったのは、そんな略歴など一切知らず、たまたまのことだった。92年に写真批評家の福島辰夫先生と知り合い、写真にはまる中で彼女の「写真論」を知り、その後はアフリカに行き、自分の中に心境の変化があり、2003年に訳出された彼女の「他者の苦痛へのまなざし」をさらっと読んだ。あとは小説「火山に恋して」が積ん読状態だったくらいの、いわば薄いつき合いだ。

 なのになぜ初夢に出てきたのか。自分に彼女と同じフェミニストや同性愛者の友人はいるが、彼女のような扇情的なタイプはあまり好きな方ではない。

 そんな偏見を捨てよ、ということなのか。

 夢の中の彼女は真っ白い髪をした細面の老け顔だが魅力があった。起きたとき、自宅でインタビューしたことがある南アフリカノーベル賞作家、ナディン・ゴーディマーに似ていると思ったが、はっきりとソンタグという文字が残っていた。

 どうも、わけがわからない。

 彼女を再評価せよということなのか。でも私が彼女について書いたからと言って、なんてことはない。だとすると、まずは彼女を読めということか。

 すっかり彼女のことを忘れていた2月、友人の推薦で、小説教室の先生、根本昌夫さんにインタビューした。その準備にと、ノートに 書き留めていた本の抜粋をパラパラみていた時、ソンタグの言葉に行き当たった。

 <書くことってなりすますことでしょ。自分の人生の出来事について書くときだって、じっさいには自分ではないんだから>(『パリ・レヴュー・インタヴューⅡ』15年、青山南氏編、訳)

 他の著名な作家たちよりも、この時の私にはソンタグの言葉が一番フィットした。書くことは「なりすます」こと。つまり、別の自分になること。ふりをすること。文章自体も、文章を書く行為も、本来の自分ではない。何かに成り代わって書いている、ということ。

 この考え方はこの頃から少しずつ私にも影響を与えた。書く物に応じて、私はある人格で書いている。つまり、私の中にいくつもの人格があり、今回はとりあえずこの人格として書いている、ということだ。自分の中の全ての人格に合わせると矛盾が生じ、書き進められなくなることがあるため、私はソンタグの言葉で少し自由になった気がした。

 3月、詩人の谷川俊太郎さんに話をうかがったとき、彼女の名前が飛び出した。死について聞いたとき谷川さんはこう言った。

 「ボーヴォワールサルトルが死んだ時に『死は暴力である』って言ったのにびっくりしたんですよ。死は暴力だという発想が自分に全くなかったからね。それから、さっき読んでた本の中でも、スーザン・ソンタグがやっぱり死ぬ前にすごい苦しんだっていう日記かなんか読んでね、だから死ぬっていうことが西洋の人間にとってすごいことなんだけど、日本人は自然と同化してね、落ち葉が散るようにみたいな感じがあるんですよね」

 そして4月、コロナについてあれこれ取材する中で、私はとにかく差別、例えば中国人、アジア人差別が起きてほしくないと思い、あれこれ文献を見ていたら、米国の言語学者の論考に彼女の作品「隠喩としての病い」と「エイズとその隠喩」を見いだした。

 彼女は梅毒という感染症が英国では当初「フランス痘」と呼ばれ、フランスでは「ドイツ病」、日本では当初「中国病」と呼ばれたと記していた。つまり、新しい病を外国人や隣国、敵対国のせいにしようとするのは人類が何度もくり返してきた習わしだったということだ。これなど、いまだに国家というラベルにとらわれ続ける人類の状況をそのまま語っている。

 ソンタグががんに苦しんで死んだのは04年の12月28日。15年以上も前のことだが、彼女が残した言葉には、コロナだけでなく、今の私たちを物語るいくつもの洞察がある。

 あの初夢以来、私の行く先々で彼女の言葉が待ち構えているのはただの偶然だろうか。いずれにせよ、もっと勉強しろ、ということなのだろう。

 

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残るもの、残らないもの

2020年5月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 ほとんどを家で過ごす巣ごもりを終えたとき、私はどんな日常を望むのか。

 まず、私の生活は前とさほど変わっていない。還暦間際の夫婦と大学生の次男の3人で暮らし、ほとんど自炊なので店が開いている限り食事には困らない。普段はごくたまに「キリンシティ」でビールを飲むくらいで、外食はほとんどしない。うまい黒ビールが飲みたいだけの話で、さほど未練はない。

 料理は夫婦のどちらかが作ったものを3人で食べ、夜は仕事を終えた10時ごろから白ワインを飲む。銘柄はまいばすけっとで売っているラポサの白で税込で603円。安くて意外に飽きないし、防腐剤が控えめで頭が痛くならない。千円クラスも試してはきたが大方はダメで、二千円以上出せばうまいのだろうが、そんな無駄遣いをする気はない。

 習慣のように飲んでいるが、朝になると必ず「もうやめよう」と反省している。どこかで脳に悪いと思っており、飲んだときにピーナッツを結構食べ、それが肥満の一因だからだ。なければないで済むものだと思っている。

 食事の方は玄米かスパゲティーがあれば味つけはいたってシンプルで、同じものを毎日食べても飽きないし、空腹が何よりのご馳走になる。最終的に政府による食材配給になっても我慢できるだろう。

 家は狭いボロ家だが全く関心がなく、服はこぎれいな1軍から少し落ちる2軍、近所を歩ける3軍、家で着る戦力外、寝間着の5種をこまめに替えるので長持ちし、年に2着も買えばいい方だ。おしゃれを侮っているので、今もっている服、靴で死ぬまで暮らしていけるだろう。

 贅沢品は8年前に新車で買った日産キューブがあるがこれは山登りに行くとき以外はほとんど使わないので、車検代が惜しくなれば簡単に手放せる。

 趣味の登山も例えば丹沢の麓まではゆっくり2日かけてたどりつき、山登りを1日楽しんで、再び2日かけて帰ってくるというふうにもできる。そう考えれば、都心に住むのがばからしくなり、コロナが去るか一時的に収まった時点で長野か福島、あるいはもっと遠くに引っ越すこともあり得る。全国民に与えられる最低限の配給食料を届けてくれるなら、打ち捨てられた別荘地でもいい。

 仕事はどうだろう。自宅ですることが多いので、巣ごもりとさほど変わらない。通勤は今年から雨の日でなければ40分かけて自転車で、あるいは2時間かけて歩くので、電車はいらない。

 職場の企画会議に出て、同僚と昼飯を食べる習わしがあるが、これは親睦であり、なくても困らない。インタビューはパソコンや電話でできるが、やはり体温を感じられるくらいの対面であるに越したことはない。それでもこれまで海外の人を取材するときはそうしてきたので、オンラインに慣れるだろう。

 物書きは職人である。山で木を拾い、削って調度品をつくる木工職人と変わらない。媒体の縮小で仕事は減り、収入は激減するが細々となら続けられる。

 身近なところを見ていくと、新聞社でデスクと呼ばれる編集者も今は自宅のパソコンで仕事をこなしている。届いた原稿を直して製品に仕上げる職人なので書き手と同じように仕事はなくならない。原稿をチェックする校閲も、記事の見出しや大きさを決める整理記者も自宅勤務が日常になるだろう。問題は商品を印刷する技術屋や職人、配達や販売の人だが、これは自宅ではできない。今も流通部門と同じで、唯一外回りが許される業務となるだろう。

 でも、突き詰めていけば、紙で新聞など出版物を読むのはごく一部の贅沢になり、コロナは結果的にオンライン版への切り替えを早めることになる。

 問題は管理職、マネジメント業だ。経費の決済や会議は自宅でできるが、技術者集団のグーグルが数年前に管理職をゼロに近づけたように、管理職は今ほどいらないということに多くの企業が気づくのに時間はかからないだろう。

 新聞社では毎日、管理職が集まって旧態依然とした編集会議を続けてきたが、コロナのせいでないも同然となったが、困ったことにはなっていない。

 絶滅はしないだろうが、課長や部長、次長といったポストは今ほどなくてもいいんじゃないかと、古い体質の会社も組織機構を見直すことになるように思う。取締役も社長も会長も同じことだ。

 サービス業を中心に失業者が増えるように、コロナを機に管理職が一気に減るかもしれない。その場合、食料配給と同じように、全員に最低限のお金を配るベーシックインカムが検討されていくのではないだろうか。そこへ向かう移行期間は大混乱になるだろうが、今の資本主義の形が幾分かは変わる、一つのきっかけになるかもしれない。

 政治の世界では、例えば先ごろサミットの首脳会議がオンラインで開かれ、なんの支障もなかった。首脳陣が一箇所に集まり警備費から随行員の旅費まで無駄な金をわざわざ使わずとも世界はまわると、多くの人が知ったわけだ。

 それでも、コロナが過ぎれば、既得権益のように再びお祭り騒ぎが始まるのだろうか。同じように、管理職たちもコロナ後にうまく巻き返し、元の木阿弥になるのかもしれない。

 いずれにしても、巣ごもりのおかげで、私たちは最低限必要なものと、そうでないものがわかってくるはずだ。

 

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セルフ特派員になる夢

2020年4月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 「セルフ特派員になろうかと」。先日、高校の山岳部の先輩と会ったとき、そんなことを口にした。これは自分の造語だ。それまでこんな言い方はしなかったのに、リタイアしたあとのことを問われたとき、さらっと「セルフ特派員」という言葉が出てきたのだ。

 こんな話だ。私は過去31年の記者生活のうち32歳の年のメキシコ留学の1年を含め14年半を海外特派員として過ごしてきた。それ以外では、エンジニアを辞めて27歳で新聞記者になった直後に長野市で2年、そして大町市で1年、さらには震災後の1年を福島県郡山市に駐在した。知り合いが誰もいない土地に入り、そこで新たな人脈を作りながら書くという点では特派員と同じだ。つまり国内を合わせれば18年半も特派員をしてきたと言えるわけだ。

 それ以外の12年半は東京にいて、主に夕刊の特集ワイド面という欄でインタビューや世相、時代について、つまり日本について長めの読み物を書いてきた。

 自分ではルポルタージュが得意だったと思うが、要は部外者の目で新しい土地に行き、どんな面白いことがあるのか、何が問題なのかを読者に伝えるという仕事だった。

 特派員は英語でcorrespondentと言い、その第1の意味は「手紙で人とコミュニケーションをとる人」とある。第2が「人と定期的に商業関係にある人」で、第3になって初めて「新聞やラジオ、テレビにしばしば遠方からニュースやコメントを提供する人」という職業が出てくる(ウェブスターのアメリカ英語辞典)。手紙を書く人というのは言い得て妙だ。何も決まった給料をもらわなくてもいい。でも、新しい土地に行ってそこのことを手紙で書き続ける。それを誰にも雇われずひとりでするのがセルフ特派員である。

 なんでそんな道を考えたかと言えば、私の中で気分だけだが最近ちょっと中国がブームになってきたからだ。いまはコロナ騒ぎで時期が悪いが、中国に行き中国語をマスターしたいと思っている。

 南アフリカで英語、メキシコでスペイン語、イタリアでイタリア語をそれぞれ勉強して、最初は結構苦しんだが、2、3年するうちに急ぎのときは電話でインタビューがさっとできるくらいにはなった。会話だけでなくあらゆるもの、中でも小説が一番有益だったと思うが、とにかく読み込むことの大切さを痛感した。そして、新しい言語になるほど学びは早かった。

 そう考えれば中国語をいまから始めても十分できるのではないかと私は思う。4言語目であるし、なんと言っても漢字がわかるのが大きい。

 先日、作家の石川好さんにインタビューする準備のため、彼の書いたものを読んでいて、私は日本人が過去に罪を犯した土地に、そして日本があらゆることを学んだスケールの大きな国に一度は行かねばならないという気がしてきた。

 考えてみれば不思議で、私は世界中を回りながら、中国と韓国、香港、台湾には行ったことがないのだ。外ではたくさんの中国人の友人ができたのに。

 一度は南京や旧満州に行ってみたいという思いが出てきたのは、昨年、作家、石月正広さんの731部隊を題材にした小説『月光仮面は誰でしょう 731部隊を逃すな!』を読んだ影響もある。

 何も大日本帝国軍がしたことを反省するためという大義からではない。単に知らないことを知りたいという好奇心からだ。

 そのためにはただそこを訪ねるだけではなく、やはり特派員時代と同じように、そこの人間の日々の雑談、独り言を聞けるくらいに言葉をマスターし、何の違和感もなく受け入れられるくらいになってみたい。

 当然ながらその途上で何かを書きたくなるはずだ。だから、ただ中国に行くのではなく、セルフ特派員として行くということになる。その足でそのままチベット、ネパールと西の方に抜けてもいいが、何よりもまずは語学のマスターである。

 始めるのはいつがいいだろう。

 いまは58歳であと1年ちょいで60歳なので、その辺りに照準を当てている。

 おそらくこのまま日本で新聞記者として65歳まで働くことはできるだろうが、新しいことを始めるには65歳より60歳の方がいいように思う。

 というのも私はそれくらいの年の人とよくつきあっているが、個人差がかなり大きいとは言え、60から65歳、70歳と5年おきに人は露骨に老いていくのがよくわかる。人によっては外見が急激に衰え、また人によっては体力、筋力や関節、別の人は脳の方が衰える。

 例えば私は作家の赤瀬川原平さん(1937〜2014年)と仕事で知り合い、彼が70歳のときから亡くなる77歳までお付き合いをする幸運に恵まれたが、70歳から病が始まり、まるで坂を転げ落ちるように、めまい、脳卒中胃がんを立て続けに患い、最後は低酸素脳症を抱えて意識が戻らないまま亡くなった。

 「それまで病気一つしたことがなかったんですけど、70になった途端、突然ですよ」と笑って話していたが、年齢とはそういうものかも知れない。

 私は別に自分の病を気にしているわけではないが、やはり新しいことをやってみるには、60歳がちょうど良い頃合いではないかと思うようになった。

 それも一時の思いつき、思い込みに終わるかも知れないが、今のところまだ3カ月くらいは続いている。あわてることはない。徐々に徐々に、中国が私に近づいてきている。

 

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羨望、嫉妬と情熱と

2020年3月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

「お寺に入ってから、一切の比較対象から下りる、というふうになりました」

 先日、長野市で再会した小山さんがぽろっとそんなことを言った。何度か挨拶したことはあるが、じっくり話すのは今回が初めてだった。

 いま69歳の小山芳一さんは営業マンを経て40代で独立し、妻と二人で市内で喫茶店を開いていた。料理は妻が、コーヒーは小山さんが担当し店は繁盛していたが、妻も次第に長時間労働がきつくなり、2年前、思い切って店を閉じた。

 67歳で引退した小山さんはその5年ほど前から、檀家をしている市内の長谷寺に通い、厠から廊下までをピカピカに磨く無料奉仕をしてきた。そんな中、少しずつ、意識が変わったそうだ。

 「店をやっていたときは、他の店との比較とか。たとえば『あの店はコーヒーがおいしい』と言われると、実際に行きはしないけど気にしていたり」

 店を始める前は、小学校から大学までの科学実験の教材を売る営業マンだった。ノルマが結構きつく、いつも競争し、人と自分を比べていたという。

 「でも、お寺や自然の中にいて、なんて言うのかなあ、ふっと、『比較されることもなく、比較することもせずに生きていこう』と思ったんです。そしたらすごく楽になりました。62、3のころです」

 お坊さんに何か言われたとか、悟りを開いたというのではなく、少しずつそうなっていったらしい。

 小山さんは私より一回りほど上だが、穏やかで、満たされたようないい顔をしている。確かに、ある領域に達した人というふうに見えなくもない。私はそんな表情が少しうらやましかった。

 というのも、私などは完全に「比較の奴隷」だと思うからだ。

 生い立ちも影響している。私には2歳上の兄がいて、小さいころから何もかも「二番」の次男だった。東京の巣鴨にいた父方の親戚が裕福で、よくおもちゃをくれた。三越の包装紙に包まれた箱をもらうとき、私はいつも興奮していたが、同時に中身を見る寸前まで緊張していた。

 兄のものに比べ、自分のは必ず2割方小さかったからだ。例えば銀色の拳銃も兄のは二段式になっているのに、自分のは単式の普通のコルトだった。大きなブリキの自動車も、兄のは黒塗りのキャデラックで、自分のは10cmほど短い赤のムスタングだった。

 嬉しいことは嬉しいのだが、ふと気づくと、私は兄の方のおもちゃをじっと見つめていた。

 三つ子の魂百までというが、物心ついたころから羨望癖、比較癖がついた私はなかなか、そこから抜けきれない。つまり大人になりきれない。例えば、本がものすごく注目を集めている人や、賞をとりすっかり脚光を浴びている知人などを目にしたとき、手放しで喜べない自分に気づき反省する。どこかで彼ら、彼女らと自分を比較しているのだ。

 面白いもので、本当に原稿のうまい人、いいものを書く人に対しては、そんな気にならない。例えば、私が心底この人はうまいと思っている作家の関川夏央さんの場合、むしろ、もっと読まれるべきだ、もっと売れるべきだと思いはするが、自分と比べ卑屈になったりはしない。

 幼いころ、私は兄が大好きだった。おそらく人生の中で一番好きだったろう。いつも兄の顔を見て、兄のすることを少し低い位置からうかがっていた。兄をうらやんだり、兄と自分を比べ、卑屈になっていたわけではない。

 ただ、すでに3歳のころにはっきりとあった羨望や嫉妬は兄に対してではなく、親戚からの贈りもの、つまりよその人からの評価に対してだった。と、今にして思う。

 背丈もさほど違わない子供なのに、どうして兄が100で自分は80なのか。その不当、不正義に対し私は憤っていたのだ。

 兄が悪いのではない。悪いのは兄と私を差別する社会だ。とそんな言葉で考えたわけではないが、ものをもらうときの私の緊張は、そのあたりから来ていた気がする。

 関川さんが評価されれば嬉しいが、そうでもない人が必要以上に評判になると自分の卑屈さが顔を出すのも同じ理屈である。

 人に比べ自分は正当に評価されていないという状況にさいなまれている、ということだ。それに気づかないと、必要もなく他者を恨んだり、さげすんだりするようになる。小山さんはそういう人間の持つ悪感情から抜け出すことができ、楽になったという。

 ただし、彼には一つ困ったことがある。登山からヒマラヤ遠征を経て、北米でのバイク、自転車縦断と、折を見てひとり旅を続けてきたが、どういうわけか、今は時間があるのに、旅に出られないでいる。

 「年を食って一つだけ言えるのはね、内側の情熱が下がったということです。それがよくわかりますよ」

 次は南米大陸を自転車で走る予定で、資金もトレーニングも万端なのに、出る気になれない。

 「行くぞ行くぞってのはあるんですけど、ここ2年、情熱が多分なくなっているんだろうなあって」

 人と比較しなくなる。それはそれでいいことだが、もしかしたら、その悪感情とともに情熱をも失ってしまったのではないか。

 逆に言えば、情熱には、自分のことを他者が正当に認めてくれないという思い、環境が必要なのか。つまり、嫉妬と情熱は、抱き合わせなのかもしれない。いずれも愛につきものの感情だし。

 

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高校生のときの自分と今と

2020年2月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 「高校生のときの自分と今の自分、どっちが大人なんだろう」。知り合いの女性の言葉だ。どういう文脈だったのか。その人はそのころ30歳を回ったくらいで、バーのカウンターで自分の家族のことを話しているうちに高校の話になり、何気なく出てきたセリフだった。

 その言葉に私は何かを感じたのだろう。フォーク歌手、友部正人の「はじめ僕は一人だった」「六月の雨の夜、チルチルミチルは」といったフレーズのように、一度耳にすると忘れられない言葉となった。

 その言葉を思い出したのは、最近、高校時代の知人に誘われ同級会に参加したからだ。といっても5人ほどの飲み会だ。フェイスブックというネット上の場で再会した人がつなぎ役となり、呼んでくれたのだ。

 私が通ったのは東京の都立上野高校だった。東叡山、つまり「上野の山」の上にあり、足立、台東、荒川、中央の下町の4区の子供が集まる学校だった。そのせいか、ほぼ全員が東京かその周辺に進学、就職し、彼らは卒業後もちょくちょく会っていたそうだ。

 一方の私は高校を出るとすぐに北海道の大学に入り、滅多に帰省もしなかったので、ほとんど誰とも会っていない。北海道のあとも20代のころの職場は鹿児島や長野で、30、40代は海外にいたので、自然に彼らから遠ざかっていた。

 こういう集まりは面白いもので、現在の家族や仕事の話は手短に済ませる暗黙のルールが出来上がっているようだった。「へえ、そんな仕事してるんだ」「すごいな」という程度の相槌で、さほど話は深まらない。

 むしろ、皆でタイムカプセルを掘り出し、当時の出来事や人物についてそれぞれの記憶を突き合わせ検証し合うのが、その場のたしなみのようだった。すでに50代も終わりに差し掛かった人たちが、それぞれの人生の40年分を脇に押しやり、18歳になる頃だけに着目する。はたから見ればまだ顔も出来上がっていないバンビのような頃を話題にするということは、それだけ、その時代が貴重だったということなのか。

 その場に集まったのは男ばかりだったせいか、会も後半になると、話題は同級の女子に移っていった。要は誰が誰とつき合っていた、誰が誰かに憧れていたといった話である。

 「今更言ったって」「馬鹿らしい」と茶々を入れながら聞いていたが、彼らがかなり真剣に恋愛活動に励んでいたことがわかった。中には同じクラスの中で累計3人に思いを伝えていた男もいて、目まぐるしく相手が入れ替わるその熱情に驚かされもした。高校生にとってクラスというのは恋愛の場でもあったのだ。そういうことのなかった私は少し感慨深かった。

 その割に私は同級生たちの風貌、特徴を彼ら以上によく覚えていた。

 「◯◯さんは確か、おかっぱ頭でうつむき加減の人だよな。まつ毛が長くて、唇が真っ赤で、口元にホクロがあって。濃紺のワンピースってイメージだよね。黒っぽいベルトをしていて」「いつもベルボトムジーンズはいて、一過性の男性アイドル風。人気の割に歌がすごく下手みたいな感じのやつだよね」

 話題に上る同級生について男女を問わず逐一そんなふうに印象を語ると、「そう、そう」「よく覚えてるな」と感心され、しまいには「お前も好きだったのか」などと言いだす者もあった。でも、そんなことはない。ただ、下校時に地下鉄のドアにもたれかかっていた姿や、廊下ですれ違った一瞬を覚えているだけだ。その人と付き合いたいとか、声をかけたいなんて気はさらさらなかった。なのに、写真のようによく覚えている。

 高校生のころは記憶の納めどころが広く、知覚する機能も新しかったからだろうか。

 会も終わりに近づいた頃、話題は久しぶりに参加した私に向いた。「でも、全然、女子に関心なさそうだったのに、よく覚えてるよなあ」「藤原ってこんなにしゃべる奴だったっけ」「もっと寡黙で硬派だったイメージあるけどな」「無理に硬派ぶってたんだろ」

 そんな評を聞いて、高校生のころの自分を思い出した。左翼的な本にかぶれていた私は「クラスとは学校側が強制した無目的集団にすぎない」と思い込み、あまり寄り付かなかった。まともに出席もとらないし、テストもほとんどない自由な学校だったため、必要と思う授業以外には顔を出さず、休み時間になるとすぐに屋上にある山岳部の部室に駆け上がり、後輩たちと冗談を交わし、本を読むのが日課だった。

 クラスを嫌っていたのではない。何か、意固地になって、教室に近づかなかった。同級生たちの話題も子供っぽいと勝手に思い、その輪に加わらず、一人高みから見下ろしているような高慢なやつだった。

 それでも、考えてみればまだ子供である。日々、クラスでそんな態度を取るのは楽なことではなかった。「硬派ぶる」ためには、ある程度自分を抑制しなくてはならない。なすがままではなく、こうあろう、という姿勢を保つのは、つっぱりと同じで、自分を抑える必要が出てくる。

 話は飛ぶが、イタリアに暮らし始め、まだ言葉に自信がなかったころ、私の記憶は細部が細かく鮮やかだった。ところが、その後、ペラペラしゃべるようになり、耳の情報が入ってくると、記憶全体がやや薄まった感じに変わった気がした。

 もしかしたら、それと同じで、自分を抑制しているときの方が、全開で発散しているときよりも記憶が深く鮮やかになるのかもしれない。

 それが真だとすれば、高校の同級生についての私の、異様なまでに詳細で鮮明な記憶も説明がつく。だとすれば、ストイックであること、自分を抑制することも、それなりに意味があるのではないだろうか。

 

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イラつく相手は自分の子

2020年1月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 12月1日、日和が悪かったわけでもないのだが、私は朝からあまり機嫌が良くなかった。

 道すがらこんなことがあった。家族で駅に向かい、廃墟となった都営住宅の脇を通りかかったとき、27歳の娘が「写真を撮りたい」と言い出した。彼女が写真を撮っている間、私たちは誰も住んでいない都営住宅の敷地内で待っていた。すると、私たちのそばを通った初老の男性が「何やってんだ」と少し大きめの声をあげた。連れの女性への問いかけとも、独り言ともとれる口調だった。ただ、語調から、好奇心というより、どこか私たちを咎めているふうに聞こえた。娘が撮影を終えたので、私はその男女を追う形で敷地の外に出た。男性は私がそばにいるのに「何をしていたんですか」とは聞かず、信号が変わるのをじっと待っていた。

 私たち一家は彼らと反対の、駅の方へ向かったが、私は心の中で悪態をついていた。「何をやっていたっていいじゃないか」「じゃあ、あんたは何をやっているんだ」

 よくない兆候だった。こんなふうに考えるのは、被害妄想的気分が出始めているときだ。

 さて、何か食べよう。私は気分を変えようと駅に向かった。どこもかしこも味が濃いラーメン屋、新しいのに古いふうを装ったカフェなど、どこも入る気がしなかった。それに繁華街でもないのに人通りが多いのも私をイラつかせた。そんな気分は表に出さず商店街へ足を向けると、最近できた格安の八百屋が賑わっていた。キャベツが98円だったので、私はひとり店に入り、それと餃子を作るためのニラを手にレジに立った。「大根が安いよ」と声を張り上げながらレジを打っていた60代と見られる女性に代金を払ったが、袋がない。見ると、レジの脇に束になった袋がぶら下がっているので、一枚取ろうとすると、レジの女性が語気を強め「あ、袋、取らないで、こっちで取るから」と言うなり、私が手にしようとしていた袋を奪い、キャベツとニラを放り込んだ。「あ、そうなんだ」と返事をしたが、外にいた娘に「なんであんな言い方をするんだろう」と愚痴をこぼした。すると娘は「袋は自分で持ってくるんじゃないの」と言う。なるほど、エコバッグが原則の店なのかと思うが「あんな言い方はないだろう」と言うと、「そのおばさん、機嫌が悪かったんじゃない」とさらっと応じる。

 気をとり直し、駅近くの寿司屋に行くと「準備中」の札が下がっていた。仕方なく駅の反対側の回転寿司に入り、70代と見られる白髪の板前さんの前のカウンターに座った。

 「すみません」と声をかけ、「マグロとえんがわ2枚」と注文したが、なぜか板前は「はい」とも「はいよ」とも返事をしない。それでも皿はきちんと出してくるので、聞こえてはいるようだ。皿を会釈して受け取っても、向こうはこちらの目を見ない。いわゆる頑固な職人かと思い、私は穏やかで低姿勢な人のふりをして「アナゴお願いします」と若干丁寧に注文するようにした。

 食べ終わったころ、息子が注文した「サメカレイ」をまだ出していないと気づいた板前が「まだ来てないね」と問い、誰にともなく、こう言った。「そこの紙に書いて注文してくれなきゃ。忘れっちまうんでね」。私はとっさに「あ、すみません」と答えたが、少しカチンときた。

 私は通常、寿司屋で最初の2、3品は決めていても、あとは気分で1品ずつ頼む方なので、紙にまとめて書くことなどできない。それとも1品ずつ紙に書いて目の前の板前に渡すのが流儀なのか。それで板前が返事もしないのなら、店と客のコミュニケーションはゼロになる。そもそも、注文を忘れないのが板前ってもんだろう。

 私はそんなことをグジグジ思う自分が嫌になり、店を出たところで娘にこうこぼした。「年を取れば取るほど、イラ立ちが増えるのかな。嫌だなあ」

 すると娘は「あんな年でバイトしなくちゃならないからじゃないの」と板前をかばった。板前は頭に「おせち受付中」という紙製のハチマキを巻き、ネタをシャリの上に載せるだけの握り方も素人くさく、言われてみれば確かに、高齢者のアルバイトのように思えてきた。

 その晩、娘に「メタ認知」をすすめられた。要は自分を一つ高みから見下ろし、自分の感情を理性でコントロールすることだ。誰もが長年やってきたことじゃないかと思ったが、常に意識しているかどうかで違うのかもしれない。

 手近にあった昭和49年版の『新明解国語辞典』で認知を調べたら、こうあった。<自分がその子の父(母)であることを認める法律上の手続き>。昔のドラマで愛人が男性に「認知してよ」と迫るときの認知で、英語ではこれをrecognitionという。認知症認知療法と今では別の意味、英語ではreをとったcognitionの方で使われることが多く、愛人が迫る認知は影を潜めた感があるが、私にはそちらの方が響いた。

 12月1日に私を襲ったイラ立ちはいずれも私の子、つまり私の中の誰かから発せられたのだ。「何やってんだ」の男性も、八百屋の女性も、板前も私の感情を映していた。彼らにはそれぞれ内面があり私の知ったことではない。でも、彼らが私に響いたのは、あくまでも受け止める私の問題なのだ。彼らは私の子、私の一部なのだと認めれば、腹を立てる必要はない。腹を立てるべき相手は私自身ということになる。

 そう意識してみると、日々の被害妄想が前よりも緩んだ気がする。

 

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