自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

南アフリカの「島々」を走り抜ける

2025年11月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 9月19日、南アフリカヨハネスブルクに着くと、すぐにレンタカーで地方へ出かけた。各地に暮らす友人たちに25年ぶりに再会するのと、「カルー」と呼ばれる土地を見るのが目的だった。

 まずはソウェトの居候先に荷を下ろし、2日後に近くのレンタカー会社「エイビス」でスズキのSUV車を1週間借りた。日本円で4万円ほどだ。さらに、事故や盗難の際にこちらが支払うのを最低額(6万円ほど)にしてもらう8000円の保険にも入った。計2800kmを走ったガソリン代が3万6000円で高速料金が9000円ほどに上った。 合わせると10万円強だ。これに宿泊費、食事代が入るので、多くみて計20万円で1週間、かなり贅沢な南アフリカの移動ができる。

 ヨハネスブルクの都市部を見るとひどい運転の車も多いが、主脈の国道を走る分には、マナーの良さから、運転ストレスがほとんどない。例えば、対向一車線の国道で遅いトラックや車は左によって道を空ける。点滅ライトでお礼をし、相手はパッシングで返す。

 しかも、国道なのに場所によっては、対向車がくるまで何分もかかるほど、車が少ない。カルーに向かう国道は、英語でクリフと呼ばれる柱状の岩山を見ながら草原を時速120km前後で延々走っていく。

 峠をゆるやかに越えたと思ったら、次のクリフが見え同じ風景が広がる。丘を越えて、というより、大波のようにうねる地面をはっている感覚だ。

 地球で最も古い岩盤が露出しているところで、大陸移動の間もほとんど動いていない土地だ。

 クリフの垂直の岩の高さを目で測りながら、私は登れそうなルートを探す。どれも太いクラック(岩の割れ目)があって、登りやすそうだ。でも、岩の基部まではどうやっていくのか。ライオンに襲われる可能性がないとはいえない。

 そんなことを考えながらハンドルを握っていると不思議と飽きない。道を外れて北へ行けばサバンナ、砂漠へと風景は変わる。

 日本なら、長野市から東京までを高速で帰る220kmの道が、渋滞も加わり、相当な疲労をもたらす。だが、こちらは500kmを5、6時間で走り通しても疲れない。走りやすさに加え、見たかった景色を見ているからだろう。

 南アの面積は日本の3.2倍で人口は半分。1人あたり6.4倍の広さを持っている勘定だが、もっと広く感じるのは、日本列島にあるような山脈がほとんどないからだ。

 東部や南岸には険しい山もあるが、ヨハネスブルクから南西へ向かい、カルーを経て大陸の最南端に近いケープタウンを結ぶ国道一号線は、標高1500mほどの中央台地を貫き、平坦部は日本よりもはるかに広い。走っても走っても延々と地平線がつづくのだから。

 カルーに行きたかったのは、作家、J・M・クッツェーの作品の舞台を見たかったからだ。回想録『少年時代』にも現れるし、『マイケル・K』で、主人公Kが死の床にある母親をカートに乗せて歩き続ける土地はカルーだ。

 90年代、南アフリカに暮らしたころ、火星の写真を一面で大きく伝えたヨハネスブルクの新聞『ザ・スター』が、見出しに「カルーみたい!」と打っていた。植物一つない荒れ地がカルーの代名詞だが、私はその地を知らなかった。

 「カルー国立公園」に着くと、入り口の係員の女性が「まあ、そんな遠くから。私、一度、日本に行ってみたいの。きょう、お母さんに知らせないと、日本人に会ったって」とはしゃいだ。

 運良くコテージを借り、広い園内を車で走り、サイの親子やさまざまなシカに出くわし、その晩は園のレストランで夕食をとった。サファリで行き交った客がそうだったので、ある程度予想はしていたが、レストラン客は100%が高齢白人だった。2人の給仕は南アで言うカラード、白人と黒人のミックスである。私がレストランに入ると、老夫婦の妻がジロッとこちらを見た。中には席に着いた私を振り返る男性もいる。見返すと、さっと目をそらす。

 打って変わって翌朝、食事に行くと、今度は1人の女性客が満面の笑みが張りついた顔であいさつした。思いっきり両手を広げて、ウェルカムと言っているような。

 90年代の南アフリカがそのまま箱庭のように残っていた。アパルトヘイト、暴力犯罪、政治の退廃という嵐を経ても、脈々とつづく南ア白人の世界がそこにある。

 温存されている一因は土地の広さだろう。そして、古くからの暮らしぶりを好む気質が、黒人白人問わずあるのも大きい。

 アパルトヘイト時代からつづく白人世界を見て、自分は失望したのか。いやそれはない。90年代には私も家族もそちら側にいたのだから、彼らの存在を否定しているわけではない。

 私はいま旧黒人居住区ソウェトの街角に住み込んでいるが、かつて暮らした旧白人居住区サントンのコミュニティーもよく知っている。黒人住民も増え、ずいぶんと多様化したとは言え、さほど変わらない暮らしをしている友人もいる。南岸の小さな村でガンと闘いつづける元教師や、別の田舎町でひとり整体を職とする女性ら、今回訪ねた白人女性たちはそれぞれ、小さなコミュニティーに守られるように生きていた。

 国の3分の2を車で走り抜け、地球のしわのような地面に島のように広がる、この国の人間集団、コミュニティーの底堅さを見た気がした。

 

● 新刊紹介

📕『ふらっとアフリカ』(2025年7月29日発売、税込1,650円、毎日新聞出版)

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南米、ヨーロッパ、アフリカ、ヒマラヤのダウラギリまで、世界各地を巡り歩いた特派員が、約25年ぶりに再びアフリカの地に降り立った!
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虫も殺せぬ男のハチ受難

2025年9月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 お盆恒例の沢登りに今年も出かけた。いつもと同じ、10歳下の沢登り名人、松原憲彦(のりひこ)との旅だ。秋山郷を南下し、新潟県境の長野県栄村から佐武流山(さぶりゅうやま)(2192m)を目指した。

 初日は林道を歩き、沢に降りて野営した。昨年は北アルプスの黒部源流で、落石が私の左足に当たり骨折し、下山せざるを得なかった。今年は心身に耳をすませ、無理をしないつもりだった。

 野宿に適した河原に荷を置くと、松原は「もっといいテン場(泊まり場)がないか見てきます」と言って沢の奥へ消えた。

 暑い日だった。私は沢の中で股まで水に浸かったときに濡れた地図を乾かした。そして、南米のチリに暮らす長男(34)の真似をして瞑想をした。

 目の前の淵に結構大きなイワナがいたので、久しぶりに釣りをしようと、針と糸を取りだした。

 餌はオニチョロと呼ばれる川虫を使うが、いくら石をひっくり返しても見つからない。釣りが高じて沢登りを始めた郡山の友人、斎藤明は大きな網で沢底をザクザクすくい、川虫をまとめてとっていたが、そんなものはない。

 ふと見ると、干していた地図の上にトンボがとまった。ギンヤンマを小ぶりにしたサイズだ。日よけ帽をさっと被せると、あっさりつかまった。ビニール袋に収め、針と糸の準備にとりかかった。

 釣る段になり、袋からトンボを取り出そうとすると、ガサガサと羽をばたつかせた。オニチョロの場合、小さな口に針を刺し、体に通していくが、トンボの場合、どうすればいいのか。

 嫌だなと思った私はトンボを逃がした。トンボは何事もなかったかのように飛び立ち、川面(かわも)を滑空して消えた。

 あんなトンボがなぜ殺せないのか。そう思っていると、松原が戻ってきた。その話をすると松原は「あっはあ、でも、トンボなんかで釣れますか?」と笑った。松原は沢登り名人だが釣りはしない。そんな暇があれば酒でも飲んでボーっとしていたいと言う。

 結局、チーズたらを餌にしたが、食いつきもしなかった。

 次の日、私たちは沢を登り、藪を漕ぎ、国境稜線に出た。そこから佐武流山を往復し登山道を下り、同じテン場を目指した。

 膝が悪い私は下りになると少し遅れる。「まっちゃん、先に行っていいよ」と言い、別行動にした。

 源流部で沢を一本間違え、すぐに水が涸れたため、私たちは午後の5時間ほど水を飲んでいなかった。暑い午後、熱中症が心配になり、私は長袖のシャツをズボンの外に出し、袖をまくり、胸もはだけた。体を冷やそうと思ったのだ。

 ようやく沢に着き、水をガブガブ飲むと、ひとり河原に腰を下ろした。

 すると、私のズボンを這う、一匹の蟻が目に入った。岩の上に落とすと、蟻はせわしなく歩いていった。

 鳥に助けてもらった蟻が猟師の脚に食いつき撃たれそうな鳥を救う童話を思い出した。そして、最近読んだ『徳の研究』という本で、地球上の蟻すべての重さは、全人類の体重の何倍もあるという話も浮かんだ。地球の主役は蟻だという話だった。

 テン場にいる松原に合流するため、前日歩いた河原をまた登った。そろそろ着くかな、というころ滝が出てきた。暑さでメガネを外していた上、夕暮れの沢は暗く、「こんなのあったかなあ」と一瞬思った。

 老化なのだろう。私は前の日にその滝を登ったことを忘れていた。右側のブッシュの方が安全だろうと、木を掴んで急な斜面を登りはじめたとき、左の手の甲にひどい痛みを感じた。「アザミか?」と手を引っ込めたら、右手、腰、胸、いたるところに激痛が走った。ハチの大群がブーンとうなり私を取り囲んでいた。

 暑さでシャツをはだけた部分を集中的に狙ってくるが、シャツやズボンの上からも刺してくる。太い注射を何本も刺されたような痛みだが、急斜面で逃げられない。

 こういう段になると人間は馬鹿力が出るのだろう。木を掴んで急いで登り上の平地に立つが、青黒いハチの群れは追いかけてくる。手の甲に群がるハチを叩き落とすが、体に弾力がありなかなか死なない。手の甲をこするようにして殺しながら、細い尾根を降りてもまだ追ってくる。

 水に飛び込みたいと思うが、斜面はかなり急だ。最後はターザンのように木から木へぶら下がり、どうにか河原に着いた。

 土の中にあるクロスズメバチの巣を踏んだようだった。何も語らないが、ハチはみなものすごく怒っていた。

 テン場に着くと、松原が「まず一杯」と冷やしたビールのロング缶を差し出した。「ハチに刺された。水をくれ」と言ったが、喉が詰まって、うまく飲めない。襲撃から10分がすぎたころ、気分が悪くなり、そのまま横になった。

 松原に地下足袋を脱がしてもらい、防寒下着に着替えるとブルブル震えだした。すぐに激しい便意を催し、なんとか起きて用を足した。ただ事ではないと気づいた松原が、私が沢に落ちないよう支えてくれた。

 再び横になると、喉がつまり、胸を踏みつけられたような圧迫があり、全身の痙攣が始まる。

 「まずいですね、救援、呼びに行きますよ」。松原がそう言ったときは、自分でも、死ぬかもしれないと思った。

 直後、半身を起こし水を飲むと、3度たて続けに吐いた。昼から何も食べていないのが幸いしたのか、大量の水と泡が出るだけで、喉をつまらせずにすんだ。

 アナフィラキシーショックだ。99年ごろ南アフリカで一度、ミツバチに刺されている。が、今回は、あとで数えたら34カ所も刺されていたので、毒の多さでアナフィラキシーに陥ったのかもしれない。

 吐くと楽になった私は、「もう大丈夫だ」と言って眠りに落ちた。全身がしびれ、モザイク状の蕁麻疹が出ていた。夜半になり、ひとり目覚めると、刺されたところがひどく痛かっただけで、もう回復していた。

 長年沢登りをつづけてきたが、初めてのことだった。

 翌朝、ハチの襲撃直前に思い出した蟻の童話の話をすると、松原は「それ、こじつけじゃないですか」と言った。声が少し弾んでいた。

 

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菅平、追想と欲望と

2025年9月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 この7月初め、浅間山近くの山に登った帰り、長野市の友人に会いに行った。車をとめた地蔵峠から南に行き、関越道に乗っても良かったが、同じ時間なので北の道を選んだ。ナビゲーションに従い車を走らせると、しばらくして見覚えのある山が現れた。どっしりとした根子岳と四阿(あずま)山だ。大きな耳を持った二つの山。その麓に広がる高原は菅平の町だ。

 そのまま通りすぎても良かったが、風景に引き戻されるように路肩に車をとめた。午後3時、昼を食べていなかったので、きた道を戻り、昔からありそうな、川べりの木陰の定食屋に入った。

 平日の暑い日でもあり、あたりには道路工事の作業員のほか人影はなく、全体に寂れて見えた。

 高原を懐かしく感じたのは、かれこれ35年ぶりにきたからだとそのとき気づいた。 1989年4月、28歳になる前に、私は毎日新聞の長野支局に新人記者として赴任した。そのころ、週末になると上田通信部の記者、上島(うえしま)義弘さんがデスクとして席についていた。上島さんは、菅平でペンション経営を始めたばかりで、私はそこに何度か客として泊まった。県警記者クラブの仲間たちを引き連れてスキーに行ったこともあった。

 夏合宿の学生が好みそうな盛(も)りつけのいいロースカツ定食を食べ終え、再び長野市に向かうと、かつては輝いていた高原ホテルが水に洗われたように脱色していた。芝居のかきわりのようだ。でも、窪地に広がる田んぼや、谷あいの狭い道は昔のままだった。

 35年なんて、あっという間だ。

 追想は大方がそうだ。時間感覚が狂う。かつての自分とその周囲の記憶が妙なほど新しい。

 でも、近未来、たとえば10年先はどうだろう。それは、振り返ったときよりもはるかに遠い先、彼方の時間のように感じられる。まだ、その行く末、経過を知らないからだろうか。

 この前、新聞社の同僚、50歳の男が「最近は還暦以上の人ばかりを取材していたので、どよーんという気分でした」と話していた。それも、同じ時間感覚だろう。50歳の彼が還暦を迎えるのは秒読みなのに、ずっと先だと思っている。

 私もそうだ。年上の友人が「77歳になったよ」「今年85」「91だけど、88まで働いたからね」などと言うと、ふーんと感心はするが、自分に重ねる現実味がない。それぞれの容貌は年相応だが、不思議と彼らは私と同じ60代、今から10年も20年も前から同じ面立ちだったようにも思える。彼らは何ら変わっていないと。記憶の上塗り、すり替えとでもいうのか。

 菅平にあった上島さんのペンションに通った20代末のころは、記者になって1、2年目で、事件記事や街ネタを書くのに懸命だった。日々が楽しかった。東京本社から応援にくる10年以上もキャリアのある科学部や社会部の先輩たちが、新聞社特有の小ぶりの原稿用紙に、サラサラっと手書きのきれいな字を埋めていくのを、「さすがだなあ」と思って脇から見ていた。自分も10年頑張れば、あんなふうになれるかなあと思いながらも、まだ若くて気楽で、目の前のことだけを一所懸命やっていた。

 上島さんはそのころ44歳で、ずっと地方回りの記者だったが、地方版に週1回の長期連載をしていて、『しなの動物記』や『動物からのメッセージ』など写真つきの野生動物の本をはじめ、5冊も出していた。「こんなのも書いてるんだ」と『北アルプスペスト事件』という推理小説をもらったこともある。

 自分が本を出すことなど想像もしていなかったころで、上島さんに憧れはしなかったが、筆圧の強い大きな字を原稿用紙に埋めていく姿を、「すごいなあ」と思って見たのを覚えている。

 上島さんは50代で亡くなり、私が海外勤務の合間、久しぶりに長野を訪ねた2005年にはもういなかった。

 ナビに導かれて菅平を通ったとき、立ち止まったのは、35年前を追想したくなったからだろう。それがついこの前のことだったとしたら、この世はひどく短いものだ、という感慨もあった。

 東京に戻った7月末、『ふらっとアフリカ』という本を出したばかりの私は、読んでくれた人の感想を頭の中で反芻しながら散歩していた。「ずっと同じことを書いてるんだけど、上手になってるよ」。長年の読者である身内にそう言われると、一瞬だが、舞い上がった。まだ良くなっているんだと。

 それでいいじゃないかと思うのに、より多くの人に読んでもらいたいという欲がある。普段は何事も流れに任せて、多くは求めずなどと思っているのに、自分が書いたもの、特に本が出ると、反応を気にしてしまう。欲に囚われているのか。欲望から自由になりたいなどと言いながら、まだ、そんなことに。

  あれこれ思い煩い自宅近くを歩いていたら、菅平の風景がまた現れた。

 ついこの前のこと、と思っていながらも、自分の気持ちは随分と遠くまできている。いまもサラサラとは書けないが、2005年から20年間で11冊も本を出している。最初の本を出した直後、もう十分だと本心から思ったのに。

 その本を出す10年以上も前、あの菅平で感じていた、ただ、いいものを書いてみたいといった漠然とした欲望。それだけで充たされていた自分は随分と厚かましく、欲深くなったものだ。私は近所を歩きながら、反省した。結果など考えず、ただ思うままに書いていきたいという初心はどこに行ったのかと。

 

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ムトゥワと梅原猛

2025年8月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

  連載をはじめるときはいつも身震いする気分だ。8月にはじめる連載のタイトルを「アフリカのシャーマン」、副題を「クレド・ムトゥワと神様」と先月書いた。が、それから1カ月がすぎ「不思議なムトゥワ」に変えた。「シャーマン」や「神様」は色眼鏡で見られるし、私はアフリカの宗教全般を追う気はない。だから、素直に自分の疑問をタイトルにした。

 ムトゥワの名を聞いたのは2024年の正月、南アフリカの居候先の息子、タタと仲間の会話だった。彼らはムトゥワが登場するインタビューを繰り返し見ていた。宇宙人やUFOの話だ。音楽仲間のサムゲロという20歳の青年が10代のころ何者かに拉致され3日後に解放されたとき、何一つ記憶がなかった珍事がそこに絡んでいた。タタは、一度見た不思議な天体をUFOだと思い、夕暮れから夜にかけいつも空を見ていた。ムトゥワを語るのもそんな天体に絡んでいた。

 24年11月、南アフリカを再び訪れズールー語の勉強を再開したら、今度は60年配の男が、ムトゥワの名を挙げた。居候先にある酒場で私に「アフリカの歴史を勉強するなら、ムトゥワの本を読んだらいいよ」と『インダバ・マイ・チルドレン(物語だ、子供たち)』を教えてくれた。

 24年11月21日、私は3,396円もする英語の本をすぐにアマゾンのキンドルでダウンロードした。単行本で700ページにおよぶ大著を読み始め、すぐにひきこまれた。

 「はじめに」の書きだしはこうだ。「アフリカでは多くの奇妙なことが起きてきた。特に最近は世界を戸惑わせ、不快にさせ、驚かせることが。世界に対し、ほとんど、いやまったく説明されてこなかったこと。アフリカ人の不思議な物の考え方をそのまま示すことで、初めてよその人々にうまく説明できること」

 「この本で私が明かす幾多のことは、多くの人にとっては信じがたいことだろう。それを私は気にとめていない。なぜなら、信じてようが信じまいが、ここに私が書くことは事実だからだ」

 内容よりも、私は英語の文章から立ちあがる書き手の熱のようなものにひかれた。いろいろな言語で読書をしてきたが、哲学者、梅原猛を初めて読んだときに同じ感覚があったのを思い出した。

 2012年10月、編纂から1300年にあたる『古事記』について何か書くようにと、新聞社の山田道子編集長(当時)から注文がきた。まったくの専門外だった私は『古事記』とその解説本を読み進めるうちに梅原にぶつかった。千代田図書館の棚の前に立ち『梅原猛著作集第8巻』に収まる「神々の流竄(るざん)」を開いた。彼が45歳、1970年に初めて日本古代史について書いた論文だ。

 「この論文は、まだ発表するには早すぎる論文である。ここに示される着想を完璧なる学術論文にするには、私は、もっと多くの文献を読み、もっと多くの実地調査をし、もっと多くの思索を重ねねばならぬであろう。私はそのことをよく知っている。 よく知っているが、ここに、この未完成な論文を発表したのは、必ずしも、『すばる』創刊にあたって、編集長の再三にわたる慫慂(誘いかけ勧めること、筆者注)にのみよるのではない」

 本はこうつづく。

 「私は、今、真理の予感を感じているのである。突然に私を襲い、私を熱中させている一つの真理の予感に、私は身ぶるいすら感じるのである。その真理は、未だ私の胎中に、宿っている。私はそれをゆっくり分娩しなければならぬ。かつて、私の心は、いくつかの真理を宿し、その真理について語った。しかし、今度、私に宿った真理は、かつて私が生んだいかなる真理にもまして大きく重い真理であると思われる。私はその真理の大きさに、おどろく。私に宿ったこの大きな真理は、大きな誤謬ではないか。重い真理分娩の仕事に私を苦しめるより、むしろその真理が誤謬であってくれと私は思う。しかし、どうやら、それは誤謬ではなく、天は私に、いやでも、おうでも、この真理分娩の苦しい仕事を命じているらしい」

 同じ表現が繰り返され、ひどい悪文だ。だが書きだしにほとばしるような熱を感じ、その晩、一気に読み切ると梅原にインタビューを申し込んだ。

 ムトゥワの本を読みはじめたときに感じたのも同じ熱だった。書き手の熱い思いはもちろんあるが、それを超えた別の種類の強い熱を私は文字から感じた。

 「神々の流竄」を梅原は長く本として出版せず、10年あまりあとに出した著作集に収めた。「あとがき」にその理由を書いている。「この論文は、私の書いたもののうちで、もっとも熱狂的なものであるが、もっとも冷静さを欠いたものであるといわねばならぬ」「それは、激しい恋のさなかにうわごとのようにささやいた恋文を、恋のさめた時に読み返すような、ひどく気恥ずかしい気がしたのである」。元の「文章を正確にしようとすると、この論文が書かれた時の熱狂が失われ、論文は死んでしまうのだ」

 12年11月、梅原は私とのインタビューの最後、「僕の能力で一番高いのは憑依の能力」と語った。「藤原不比等が突然見えてきて『神々の流竄』を書いたんです」

 冗談ではない。本気でそう言った。それが本当なら梅原は一種の霊媒師だったことになる。

 シャーマン、哲学者と呼ばれたムトゥワを読み、梅原と同じ熱を感じたのは、二人に共通するものを私が感じたからなのか。それは何なのか。

 連載はその辺りから書き始めても良さそうだ。

 

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シャーマンをどう書くか

2025年7月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 私は何をすべきなのか。南アフリカのシャーマン、クレド・ムトゥワのことだ。南アの古い友人から「お前は一度彼に会っている」と断言されながら、私は彼とのことが全く記憶になく、現時点でその証拠もつかんでいない。なのに、あるいは、だからなのか、私はムトゥワのために何かしなくてはならないと直感した。それはなんなのか。

 彼の思想を日本語で伝えるのが使命なのか。そのためには彼の大著『インダバ・マイ・チルドレン(子供たち、物語だ)』(1968年)をまずは訳すべきなのか。

 1921年南アフリカに生まれ、艱難辛苦の末、娘によれば、自分の教えや予言に対する人々の無理解に嫌気がさし「もうこの世にいたくない」と2020年に自ら亡くなったムトゥワ。98歳だったため老衰と伝えられたが、まだ生きることはできたと妻のママ・バージニアも私に語った。この世の人々を見限って天界に去ったが、それ一つとっても確証はない。

 3月に南アから帰国した私は雑用(世田谷市民大学での週1度のおしゃべり「半径5mから世界を書く」や原稿書き)と、お稽古事(クライミング、空手、チェロ、ズールー語、麻雀)、そして友人たちとの飲み会で、気づくと2カ月半が過ぎてしまっていた。  すぐに始めるつもりだったムトゥワの背景取材にまだ手をつけていない。南アでは関係者や彼のゆかりの地を訪ねたが、彼について語られる研究者の論文を読んでいないし、ネットに散らばる彼の言葉をすべて拾ったわけではない。全集に例えればまだ第1巻の序文しかかじっていないのだ。

 集英社インターナショナルに「インダバ」の翻訳を売り込んだが、「翻訳本は売れないし、一般書も売れ行きが急激に落ちているので」と興味を示さなかった。著作を訳すとなると相当な年月を要する。翻訳本を出したことのない私にそれに耐える胆力があるのか。それも自信がない。

 やはり、私ができる唯一のこと、書くことしかないだろうと、まずは連載を始めることにした。締め切りが設定されれば、取材せざるを得ず、それがもっとも私らしい貢献と考えたからだ。

 仮のタイトルを「アフリカのシャーマン」、副題を「クレド・ムトゥワと神様」にし、書く場をいろいろ考えたが、結局、来春まで契約記者をつづける新聞でやることにした。分量に自由が効く各社のウェブページも考えたが、ムトゥワを日本人に広く知ってもらうには、読者数が減っているとはいえ、天皇家から刑務所の受刑者、精神病院でリハビリをつづける人まで、あらゆる層が読んでいる新聞が適していると判断したからだ。

 『毎日新聞』に打診するとその場で「やってほしい」と言ってくれた。そこで過去5年、長期連載をつづけてきた「夕刊特集ワイド面」に78月から月1ペースで書くことに決めた。

 これまでの連載のように週1回書くことも考えたが、ムトゥワの言葉の真偽や意味を、学術的に補強した方がいいと思い、アフリカ史を洗い直す必要があるからだ。それに加え、私は日本にいる以上、インタビューや映画、本の紹介など他の話題も書きたいため、月1本にした方が時間に余裕がある。

 問題はどう書くかだ。

 ムトゥワはズールー族出身でアフリカの信仰を司る神官だ。現地でサンゴーマと呼ばれる。サンゴーマは南アの町や村の丁目ごとに1人はいる医師のような役割で、西洋医学とは別の伝統的な手法で住民の病いや悩みを癒やす。

 若いころ、全身を蝕む病で苦しんだムトゥワは、父親が狂信的なキリスト教徒だったため西洋医学の医師に診てもらうが一向に治らず、最後は母親の身内のサンゴーマの手で完治した。

 それを機にムトゥワは20代でサンゴーマとなり、のちにその治癒力、予言の確かさが並外れていたため、アフリカに数人しかいない称号サヌーシをサンゴーマの長たちから与えられた。

 宗教がらみの話を書くのは難しい。キリスト教イスラム教も、仏教、神道もそうだが、何事も裏づけされた事実を書くのを前提としている新聞の場合、書き方が容易でない。

 しかも、アフリカの信仰となると、どうしても偏見がつきまとう。

 例えば聖書で描かれる奇跡やキリストの行いが、魔術と書かれるのは稀だ。対してアフリカや中南米の先住民の場合、ついこの前までの私もそうだが、土着や呪術、祈祷、精霊などの言葉が使われることが多い。

 西洋中心の視点が私たち日本人にも長く定着しているためだ。

 タイトルにしようとしているシャーマンもグーグルで真っ先に出てくるAIによる定義はこうだ。「超自然的存在(神や精霊など)と直接交流し、その力を得る呪術的・宗教的職能者のこと」。

 つまりアフリカの信仰について書くだけで、神道以上の禍々しさ、怪しさ、ひいては前近代的な遅れたものといった偏見がつきまとう。これをどう克服するかが難題だ。  私はアフリカの信仰を丸ごと信じているわけではない。ただし、全面否定するいわゆる「科学原理主義者」ではなく、わからないことはあるかもしれない、という不可知論者の立場にある。

 その立場で読者をどう引き込むかも、書く上では大きな課題になるだろう。 私はこの夏、新たな文体、書き方に挑戦することとなる。結構緊張しているが、それは大いなる楽しみでもある。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

気の短いシェパード

2025年6月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

  南アフリカ、ソウェトの居候先には毎日いろんな人がくる。家主のケレや妻のムバリ、離れに住んでいる息子夫婦はもちろん近所の人がよくくる。

 「ウラレ・ガーヒェ(よく眠れた)?」「ウンジャニ(元気)?」という挨拶を交わすと少し雑談をし、時間があれば辺りを散歩したり、近くの酒場で玉突きをしたり、知人宅をのぞきにいったりと、夏休みの子供のようにすごす。きょうは何して遊ぼうかと。と言うのも彼、彼女らの大半が無職だからだ。

 そんなひとりに私と同い年のシェパードという男がいる。ケレの幼馴染で小学校のころから向こうっ気が強く腕も立つため、ボディガードのようにケレに寄り添ってきた。  私は90年代に交流はなかったが、今回、2024年初めからのソウェトに居候するようになると、ほぼ毎日のように顔を出す。

 本職は自動車の修理工で何度か勤めたこともあるが、いまはフリーで呼ばれればガレージに修理に行き日銭を稼ぐ。「一度うちにも来てくれ」というので徒歩10分ほどの平屋をのぞくと、裏庭にパジェロが2台、アウディが1台雨ざらしになっていた。部品が手に入らないため、修理が始まらないのだという。

 「車が直ったら、あんたをどこにだって連れていけるんだけど」「パジェロはいい車だ。完成すれば、ダーバンだってどこだってすぐだよ」。沈黙がつづくとそんな夢のような話を英語で思い出したようにする。

 「車があればなあ」と私がよく言っているからだが、修理の金を出してくれとせがんでいるように聞こえたので、「俺はそんな金を出す気はないからな」としょっぱなに釘を刺した。すると短兵急の彼は途端に怒り出し「俺はお前に出してもらおうなんて全く思ってない。何を言ってんだ」と気色ばむ。

 彼とはダウンタウンやソウェトの中でも遠方をよく一緒に歩いた。ある暑い午後、文化村に行くため私がグーグルマップを見ながら先導していたら、「こっちだ」と彼が言うので、「そっちだと遠回りになる」と私がスマホを見せると怒り出した。

 「そんなものをみな使っているけど、それは嘘を教えてわざと人を迷わすんだ」

 シェパードは電話しか使わない。ガラケーを持っているがスマホはない。

 「だけど、この地図を見てみろ。こっちの道が近いのは明らかだろ」

 「それは嘘をつくんだ。お前はソウェトを知らない。俺はここで育ったんだ」

 「だけどこの前も間違えたじゃないか。黙って俺についてくりゃいいんだよ」

 私が語気を強めるとあっさりキレた。

 「俺はお前のボーイ(小僧)じゃない! そんな口の聞き方は許さねえぞ。お前なんかいつだって殺せるんだ」

 こういう男はよく吠える犬と同じだ。こっちがひるむとつけあがる。

 「じゃあ、殺せよ、ほら、いま殺せ!」

 怒鳴りあう私たちの声に、通りかかったカップルがビクっとして足を止めた。

 「じゃあ、先に行けよ」と私が折れ、シェパードを先に歩かせると緑地を斜めに突っ切る踏み跡を進んでいった。確かに、グーグルマップに出てこない近道だった。

 その午後は互いに一言も口を利かなかったが、帰り道、食パンにフライドポテトと薄いハムを挟んだ100円ほどのイコタと呼ばれる軽食を買い、緑地に座って食べた。腹が膨らむと気分も収まる。二人とも朝から何も食べていなかったのだ。

 「お前が 正しかったな」「ああ、俺も悪かった」と漫画『夕やけ番長』のようなセリフで我々は和解した。

 シェパードは「殺すぞ」と言ったが、実際に人を殺していて、服役後も25年3月に私が去るまで、保護観察期間が続いていた。

 6年前、妻の浮気現場を押さえ、その場で相手の男をナイフでめった刺しにした。服役中、改心した妻がとにかく尽くしたため、よりを戻した。が、「殺したことはいまも後悔していない」と私に言った。

 殺すことはないだろう。それだって好きな女が選んだことなんだから許してやれよ 。私はそう思ったが言わなかった。

 それよりも彼を苦しめているのは服役中に長男が殺されたことだった。あるとき、まとまった現金を手にした息子はギャング仲間にそれを強奪され、抵抗したため殺された。

 「俺は息子を殺した連中のうち2人を知ってるんだ。やらないわけにいかない」

 あるとき、彼が毎晩2時間くらいしか眠れないと言うので、理由を聞くとその話を始めた。妻の浮気相手を殺した話は早い段階で聞いていたが、息子のことは長く言わなかった。

 いずれも私がしつこく聞き出したわけではない。「なんで刑務所にいたんだ」「なんで眠れないの?」と言った軽い問いかけに彼の方から話し出した。

 「復讐はやめとけよ。今度はその家族がお前や身内に復讐するぞ」と一応は言ったものの、私にはそんな経験がないので、どうしたって言葉は軽くなる。

 いくら食べても太れない、昆虫のタガメのような体と、突然のように光る濁った目。それは長きにわたる不眠からきたものか、もともとの気質なのか。どうしてなのか、私は彼のように何かが欠落していたり、深い傷を抱えたような人と仲良くなってしまう。

 あるとき、普段酒を飲まない彼が珍しく黒ビールを2本買って、コンクリートの床にひざまづき「あんたに感謝する。あんたは俺のヒーラーだ」と言って、1本を私に差し出した。

 「なんだよ、それ」と言うと、「いや、あんたといると、気持ちが落ち着くんだ。だから、あんたは俺を治してくれているんだ」

 何を言っているんだと思ったが、嘘でも、もしそう思うならそれはいいことだと思って、「そりゃいいや、じゃあ、毎日1本買ってくれよ」と冗談で応じると、「毎日は無理だ」と真顔で答えた。

 シェパードは保護観察処分が終わった4月以降も、少なくともまだ、息子の加害者たちを殺していない。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)

 

アフリカの男と女

2025年5月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

  南アフリカを離れ帰国する前、近所のシェビーン(安酒場)に顔を出すと、かっぷくのいいママ・ロロがふてぶてしい声で言った。「アキオ!結局、あんたに紹介できないままだったね」。「何をだよ」と聞き返すと、「へん、アマチェリーだよ」といたずらっぽい目で笑う。アマチェリーは英語からきたズールー語の造語で、恋人、愛人の複数形を意味する。

 すぐわきのテーブルで腕組みしていた、ママと同じ40代後半の女性マゼティも「ほんとだよ、アキオ、半年もいたのに、どうしたんだい、これは?」と左右の乳房の前に交互に指を立てる。女を意味するアフリカ人特有のジェスチャーである。

 いま日本の職場で、例えば「今度来る人は女性か?」と聞く代わりに両胸に指を立て、「これか?」などと聞こうものなら、コテンパンに言われそうだが、この地では男も女も同じ仕草をする。そもそも「セクシュアル・ハラスメント」という言葉も観念もさほど浸透しておらず、日本で言うなら昭和の感覚がまだ残っている。少なくとも私が暮らす旧黒人居住区のソウェト周辺では。

 男尊女卑なのかというと、そう単純でもない。パーティーや冠婚葬祭で人が集まれば、必ず男女に分かれて固まり、男の場合、年配と若輩に分かれる。差別というよりただの慣習だ。女性が男にかしずきおとなしくしているといったことはなく、近所で怒声をあげて相手を殴りつけるのは大体女性だ。もちろん、女性が被害に遭う例も多いそうだが、密室で行われているのか、8カ月ほどの滞在中に私は目撃していない。

 ママ・ロロと別れて、家に戻ると、今度は友人の妻で30代のムバリが近所の友達とおだをあげながら、「結局、アキオに女を紹介できなかった」と同じことを言った。  「いらないって」といつもの返事をすると決まって同じやりとりになる。「なんで?」「日本に妻がいるから」「でも、こっちにはこっちのアマチェリーを作ればいいじゃないか」「そんなのつくったら大変だよ」「何言ってんの。普通のことだよ」「でも妻が来たら困るじゃないか」「そのときは、そのとき。アキオは心配しすぎなんだよ」

 アキオという音は、ズールー語に近い部族語、ソト語で「私はここにいない」という意味になる。それだけで笑えるせいか、女性たちは気安く「アキオ!」と呼び、からかいの対象になりやすいが、彼女たちのおせっかいは半ば本気だ。

 ひとり暮らしの60歳の俳優タフィは「ひとりが一番だよ」と言い、笠智衆のような風貌もあいまって、枯淡の境地に見えるが、聞いてみるとアマチェリーが3人もいるという。「3人?」「入れ替わり来るけど、金がないから、面倒みちゃいられないよ」とすましている。

 ズールー語の先生、ムザマネにその話をすると「タフィは服のセンスがいいから、ファンに追いかけられて、若いころは10人はいたんじゃないか」と言う。元高校教師のムザマネは月に15万円も年金が入り妻子に囲まれ静かに暮らしているが、息子と娘計4人は独身なのに子供が何人もいる。ムザマネも孫ができた喜びが先に立ち、息子と娘が片親であることは気にしていない。

 実際、40そこそこの元俳優ツァバンは子供が9人もいて「母親は全部違うし、同学年の子も結構いるんだ」と笑いながら言う。自慢げでもある。近所で所在無げにしている20代の小柄な男も、田舎や町に6組の母子がいて、「2番目の娘の母親が金を持っていかないと家に入れてくれないんだ」とこぼしては、仲間に笑われている。

 みながみな、そうなのかと言えば、そんなことはない。23歳の音楽プロデューサーの卵、シポは「俺は子供はつくらない」とぽつりと言った。「無職なのに子ができたら、その子がかわいそうじゃないか」と。15歳のころ、母たち家族を火元が原因の一酸化中毒でなくし、音信不通の父に頼ったら、逃げられた過去がある。

 進学や修学旅行のたびに電話で送金を頼むと「おばあちゃんに送っとくから」と言っては、結局送ってこない。「そんな思いをさせたくないから、子供をつくらないんだ」  複数の妻を平等に扱う一夫多妻制は有名無実となり、ロボラ(結納)も払わず男女がくっついては離れ、子供ばかりが増える社会となっている。気楽そう、自由そうだが、個々の気持ちは日本人一般とそうは変わらない。職がなければ情けないし、子供の前では立派な親でいたい。ただし、それが叶わなくとも、悪し様に批判はされず、「しょうがないやつ」として受け入れられる土壌がある。

 追い込まれない十分な隙間があるのは、子供をみなで育てる互助の精神がまだしもあるからだ。だが、政府が配る子供手当はわずかなもので、一人にかける教育費は限りなくゼロに近い。無職の子沢山は例外中の例外になりつつある。

 居候先に暮らす32歳のタタには妻との間に12歳の娘がいる。あるとき「ちょっと出かけないか」と言うのでつき合うと、徒歩30分ほどのショッピングモールにあるケンタッキー・フライド・チキン(KFC)に行くという。外食なんて珍しいなと思っていると、ランチボックスを一つ買うだけだった。「あした、(娘の)ララの遠足だからね。ララ、KFCが大好きだから」と箱が崩れないように大事に捧げ持って、また30分歩いて家に戻った。その用事に私も含め男たち4人が同行する。

 タタは始終うれしそうだった。一人娘を大事に大事に育てる。それがごく標準になりつつあるのも、またこの地の一つの光景だ。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)