2021年5月号掲載
あれは私が中一の冬だから、1975年の1月か2月の事だ。私の二歳上の兄と父親が取っ組み合いのけんかをした。父は時折、どうにも耐えられないという風にうなり声のような怒声を上げることがあったが、妻にも子供にも暴力を振るうことはなかった。だから、その日は例外中の例外だった。
兄はグレたという程ではないが、中三になった途端、勉強をしなくなり、アイパーをかけ、ボンタンを履くようになった。事件が起きたのは、都立高校の受験の直前だった。すでに日大一高に落ち、本人が行く気のしない落ち留めの別の私立には受かっていた。
おそらく最初は母に告げたのだろう。「俺、高校に行かないから」と言い出した。母親はそれを帰宅したばかりの父親に伝えた。父と兄との話は最初から冷静ではなかった。傍らにいた私は、こんなやりとりを記憶している。
「高校に行かない? そんなのは通じるわけないだろう」
「でも、行かないって決めたんだ」
「じゃあ、どうするんだ」
「美容師になる」
「美容師? 何言ってんだ」
この時、父の声はドスのきいた怒号になった。
「それだって、高校に行かないわけにはいかんだろ。何言ってるんだ、お前は」
「行かねえって決めたんだ」
もみ合いになるきっかけは何だったのか。父がビンタでもしたのか。いずれにしても二人が取っ組み合うのはこれが最初で最後だった。
最後は押さえつけられた兄が「行かねえよ、絶対行かねえよ」と言い続け、父が「まだ、わからないか。これでもか」と息子を締め上げていた。
それから数日、家はとても暗かった。普段なら短気を起こしても翌日には何事もなかったかのようにカラッとしている父親がしばらくは無表情のままで、兄も食卓では一切の感情を押し殺していた。
その週の日曜の朝、早く起きた私が1階に降り、郵便受けを見ると、分厚い大きな封筒が届いていた。「日本大学第一高等学校」と印刷されていた。それを手にし、うれしくなった私は二階へかけ上がりながら「日大一高から大きな手紙が来てるよお」と大声を上げた。両親、兄、そして妹も起き出して、床の間に集まった。
「何だろう」。開けてみると、そこには「補欠合格」を祝う言葉と、その手続きの書類や、日大一高のパンフレットなどがぎっしり詰まっていた。入学には、いくらかの寄付金を納めるのが条件だった。
凍りついていた家のムードはその朝氷解した。
父も母も兄に「良かったねえ。コウちゃん」と声をかけ、兄も少し照れたように「補欠なんてあんのかよお、全然知らなかったからさあ」と笑顔で応じ、父は「日大一高は両国に昔からあるんだ。下町のいい学校なんだ」といつになく冗舌だった。
ショーケンと呼ばれた俳優、萩原健一の追悼記を書くため、彼の出演映画やテレビをここ3カ月ほど見続けた。その末、デビュー当時のテレビドラマ「傷だらけの天使」が最も彼らしい作品だと気づいた。
20代前半の無職の若者が、怪しくも重々しい探偵事務所にこき使われ、事件や人の情に巻き込まれていく。ショーケンとその子分アキラを演じる水谷豊とのブツブツ独り言のような掛け合い、ふざけ合いが面白く、当時の中学生の間で瞬く間に人気が出た。「アニキィ」と言う水谷豊の言い方が、彼が着ていたスタジャンやスリムのジーンズと同様、ブームになった。
よく交わされる二人のやりとりにこんなセリフがあった。「アキラ、ほんとに教養がないな、お前は。中学中退だからよお」「アニキはいいよな、中卒だからよお」。そんな二人が中学生の目には実にかっこよく見え、何か悲しく情けないけど、楽しそうで、大人になるのも悪くないと思えた。
ドラマが放送されたのは74年秋から75年春で、毎週土曜の夜10時に始まった。その時間帯、親は二階の床の間で別のテレビ番組を見ており、兄と私は一階の台所でこのドラマを見ていた。
私たちにどういう理屈でどれほどの影響を与えたかはわからない。ただ、学歴など関係なく、勉強などしなくても、大人になればどこまでも自由でいられるような明るさを私は見ていた。自由という言葉を知っていたかどうかはわからない。それでも、少なくとも、中学校という何事も制限された居心地の悪い環境よりもはるかにのびのびとした未来があると、あのドラマを見て感じていた。
兄が「高校に行かない」と言い出したのは、ちょうどドラマが終盤にさしかかる頃だった。「そんな昔のこと、覚えてないよ」と兄は言うが、あの日の彼を、「傷だらけの天使」が少なからず後押ししたと私は思っている。
兄は日大一高に入学すると名門の柔道部に入り、それまでのアイパーを坊主刈りに変え、しばらくは張り切っていた。「美容師には高校出てからなればいいじゃん」と私が言うと、「まあな」と言っていたが、結局は日大の土木工学科に進んだ。人が変わったように真面目に大学に通い、多くの同級生の宿題の図面を一人で何枚も、全く違う筆跡でこなすアルバイトなどに励んでいた。
就職は「大手に行っても日大じゃ出世できない」と当時、ベンチャーだった不動産開発会社「スターツ」に入り、年金受給資格が得られる47歳の終わりに、ぴたっと仕事をやめた。 父が75歳で胃がんで死んだ2年半後のことだった。独身の兄は「お父さんがこんなに早く死ぬとは思わなかったから、予定が狂ったよな」と言いつつも、父の死後は老母と同居している。一切のぜいたくをせず、無職のまま今に至る。
●近著
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)