自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

親からの距離、人からの距離

2018年4月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 25歳で企業に就職したとき、心理テストを受けさせられた。旧財閥系の大手で、定年まで勤め上げるのが当然のような会社だった。一人ひとりの気質を正確に押さえておく必要があったのか、単に余裕があったのか。全国を回る入社研修の中で、1時間ほどのペーパーテストを受けた。

 四択か五択で「こういう場合、あなたはどうしますか」「あなたは次のうちどれに近いですか」といった質問が書かれていた。詳しい内容は覚えていないが、渡された報告書の図はよく覚えている。

 「社交性」や「協調性」など性格を示す5つの項目にそれぞれ点数がつけられ、各項目を一つの点にした五角形がそこにあった。平均値を示す円から大きくはずれず正五角形に近い形なら「標準」ということだった。

 私の五角形は一つの点だけ枠から飛び出していた。大きな彗星、流れ星のような形だ。他の4点が頭部をつくり、流れ星の尾っぽの先に残りの1点がある。「親からの距離」という項目だった。

 新入社員は心理分析官のような人と人事部の課長補佐を前に面談を受け、いろいろ指摘されたが、分析官の一言をよく覚えている。

 「これは珍しいですね。一つだけこんなに外れているのは」

 「何か問題ですか」という私の問いに、「いや、心配しなくていい」と言われたように思う。いつもどこか不敵な笑みを浮かべている課長補佐がその笑みをことのほか強めていた。

 性格診断は占いみたいなもので、「そうかもしれないし、そうでもないかもしれない」とすぐに忘れるものだが、「親からの距離」の文字だけが鮮明に残った。診断が正しいとしたら、なぜ自分は「親からの距離」がそんなに遠いのか。虐待を受けたこともないし、無視されてきたわけでもない。

 ただ、振る舞いを見ると、確かにそういう面はある。10歳のころから、週末は映画館に通い、一人で街をほっつき歩き、親にどこかに連れてってとねだることはなかった。中学になり山登りを始めると、「危ないからやめなさい」と止める母親がうっとうしく、高校に入ると、大学は遠くへ行き一人で暮らそうと夢想し続けた。そのころ暮らしていた東京の大学にも受かり、親は「そこに行け」としきりに説き伏せ、独断で入学金まで納めたが、私は我を通し、北海道の大学に行った。

 札幌に一人落ち着き解放された気分でいると「一度も来たことがないから」と、母親が入学式に乗り込んで来た。嫌で嫌で仕方がなかった。入学式など行かないつもりだったが、母親に促され、しぶしぶジャージ姿で参加し、会場を出ると「じゃあ、ここで」と雪道に彼女を残し、逃げるように離れていった。彼女はその後、観光して帰ったようだが、私は「なんでもっと優しくしてやれなかったのか」と半泣きの気分になった。それでも、「甘い顔を見せたらダメなんだ」と自分に言い聞かせ、母のところへは戻らなかった。切り捨てたような思いだった。

 親から離れたい、家を出たいというのは少年少女のほとんどが抱く思いで、特別なことではない。

 歳月がすぎ、父は75歳で病死し、いま85歳の母は、父の死後、家に戻った独身の兄と二人で元気に暮らしている。私は18歳で家を出てから、結局一度も親と暮らすことはなかった。

 私は父が好きだった。生前は些細なこと、どちらかと言えば私の横柄な態度が原因でぶつかることもあったが、彼への懐かしみは死後ますます強まっている。

 母のことも大事に思っているし、うまくはやっている。手仕事でも習い事でも読書でも、常に細かなことに没頭するところが少し変わっていて面白い人だと思っている。つまり、親から気持ちが離れたわけではない。

 これは後付けだが、思い当たるとすれば、「親からの距離」が一気に遠のいたのは10歳の夏だったように思う。私はあまりに反抗期がひどいので、叔母に連れられ岡山県で一夏を過ごした。そのとき、当時23歳のいとこと急速に仲良くなった。軽い障害から両親にひどい扱いを受けているように当時の私には思えた彼を、東京に連れてこようとあれこれ画策した。そのとき、必死な思いで訴えた親、特に母親が彼の両親に私たちの企てを伝え、いとこと私の計画は水泡に帰した。

 私は子供のころから表面上は穏やかな方だったが、そのときの失望、怒り、親を中心とした世の中への恨みがじくじくといつまでも残った。子供は結構、批評的に大人を見ている。

 孤独という言葉はあいまいだが、その「事件」を機に、自分のいる世界の中心が親から自分ひとりに移った感覚。そこには不安や寂しさがあったが、同時に清々しくもあった。

 ちょっとドラマチックに考え過ぎかもしれない。でも、それが「親からの距離」が開き始める起点だったように思える。

 「親からの距離」はもしかしたら「人からの距離」をさしているのかもしれない。人が好きで人への思いは人一倍あるほうだが、私は根の部分で人に依存しない。人に甘えるくせに最後のところで冷めている。どこか見限っている。

 人は自分の外にいる、楽しみや悲しみを伴う一つの存在にすぎず、自分と一体になることはない。自分の内部を占めることはない。

 こうした性格は、最初に触れる人間、つまり親との距離が基礎になっているのだろうか。それとも生まれ持った気質か。ただ、気質は気質であり、今ではそれが問題だとは決して思わなくなっている。治そうとは思わない。年齢のせいなのか。

 

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