自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

「良く老いる」「悪く老いる」とは

2021年4月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 先日、ローマに暮らす作家、塩野七生さんと電話で話していたら、イタリア語の「インヴェッキアート・ベーネ」という表現に行きついた。直訳すれば「良く老いた」ということになるが、もう少し軽い感じで、「あの人、いい感じに年取ったね」と使われる。例えば、ベルルスコーニ元首相のように、老いてもギラギラして、女性とのスキャンダルが絶えないような人には決して使われない。かと言って、日本の俳優、笠智衆が演じたような油が抜けきった枯淡、枯れた老人とも違う。

 その意味合いについて塩野さんは「若い頃の良さをそのまま残しながら、年齢だけは重ねた人」と言う。別の言い方をすれば「佇まいの美しさは昔のままで、年だけは重ねた老人」となる。いずれも故人だが、塩野さんがつき合ってきた3人、映画監督の黒澤明、写真家、奈良原一高、建設官僚の都市計画家、下河辺淳には当てはまるのではないか、と聞いてみた。

 「佇まいの美しさというとどうかなあ。ただ、まあ、そうですね。あたふたしない、何が起きても慌てふためかなかったってことでは共通していましたね」

 それは、生まれもった気質によるのか。それとも、やってきたことによるのか。どうも仕事の面が強いようだ。

 「自分でできる仕事はやったっていう自信ですね。『まだやれたんじゃないか』とかさ、『やれなかったのは社会が悪かったんじゃないか』とかさあ、そう思い始めるともう俗が残っちゃう。インヴェッキアート・ベーネという言い方は、イタリアでは相当使われてますよ。非常に簡単な例を言えば、クリント・イーストウッド。あれがそうね。なんだか好きなようにやってるじゃないですか、あの年で」

 でも、黒澤明は少し違う感じがすると言うと、こんな話を教えてくれた。

 「あるとき私、日本で終の住処も買わなくちゃ、なんて思ってさあ。『家、探しているんですけど』って言ったら、黒澤さんが『そんな必要ないんじゃない?』って言うわけよ。『家持ってるのと再婚すれば?』とか言うのよ。『それはそうですよね』って言ったわけ。そしたら、先生が、彼はそのとき奥さんがいなくなっていたから、『僕、立候補してもいいけどね、ここの家は借家なんだよ』って言ったの。それはどうしてかって言うと、(世田谷区)成城にあった監督の家だけ借家で、あとは、美術やなんかのスタッフは自分の家があって、地代が上がった時にみんなお金持ちになった。なのに監督だけが借家なのは、映画が失敗した時に(抵当として)取られないようにだって。笑っちゃったけど、こういうところが尊敬するところ。お金を持ってたから良く年取れるわけでもないの。ただ、自分ができる範囲ではやったと思う人は美しくおります。だから、私はどちらかっていうか、まあ決定的にそっちの方を選んでる」

 友人にしても恋人にしても、そういう相手とつき合ってきたということだ。

 黒澤の話で示されるのは、あれだけの仕事をしながら、家を持たず、金を追わなかったという点だが、「自分がやれる範囲ではやった」とはどういうことだろう。

 それはどんな仕事でもいい。環境、状況と呼んでもいいが、自分なりの世界で自分なりに生き 、できる限りのことをしたということだろう。そう言えば、イタリア語には「他人の脳みその奴隷になるな」ということわざもあった。

 まだやりきれていない。もっとできたはずだ。いや、全く違う人生があったかもしれない。あのとき、ああしていれば。あいつが邪魔さえしなければ。なぜ、世の中は私を認めなかったのか。みんなバカなんじゃないか——、とそんなふうに考えてしまうと、良く老いることはできないということだ。

 塩野さんは年末に完結させた「小説ルネサンス」の中国語版について触れ、こう続けた。「私は(装丁や写真など)強硬に条件をつけるわけです。中国からオファーがきたら喜んで受けるかって言ったら、そんなことはない。やっぱり譲れないことは譲れない。だから、私が人生読本かなんかを書くと、売れるかもしれないけど、そういうことってもうやめた方がいいんじゃない。問題提起から外す。それが本当に一番大切なことじゃない?。やりたいこと、やらねばならないと自分で思っていることは自然に一生懸命やって、何かは実現しますよ。でも、やっぱりできないこともある」

 要するの「自分がやれる範囲ではやった」とは、やりたいことを精いっぱいやったということだけではなく、やりたくないことはきっぱりとやらなかった、ということも含まれているのだ。

 塩野さんが「生き方本」「老い方本」などを書けば、大きな新聞広告も出て、それは売れるだろう。でも、そんなことはしたくないと彼女は言う。それは自分がやりたいことではないからだ。

 マーケティングという言葉がある。今何がはやって、何が売れるか、うけるかを常に気にして、それに合わせて物を売る。自分が売りたい物を売るのではなく、世間の流行に自分を合わせる。今で言えば、ツイッターなどSNSでしつこいくらいに自分やその作品をネット上で売り込んでいく。それは恥ずかしいことだという感覚は、とにかく売るという市場に押しつぶされる。市場が先か自分が先か。

 単純に二つに分けられるものではないが、塩野さんは彼女なりの市場調査をして作品を発表しながらも、最後の最後で自分を優先させる。どうにも自分らしくないことはしたくないのだ。彼女が尊敬した三人もそうだったが、何も著名人だけのことではない。誰にでも通じる話だ。

 出世や金のためには手段を選ばないとよく言うが、この手段を選ばないやり方、自分に不正直なところが浅ましいのだ。その浅ましさが人を悪く老いさせる。

 

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