自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

夢と言語とアフリカと

2025年4月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 南アフリカのソウェトで二度目の居候を始めて4カ月がすぎた。まもなく日本に帰るが、最近、夢をズールー語でみるようになり、自分でも驚いて目覚めることがある。そんな夢はいつも穏やかだ。近所で行き交う人の顔がこま送りのように現れ、いま取材しているアフリカの哲学者、クレド・ムトゥワらしき故人も出てくる。夢の中で私は発音に苦労しながらズールー語で話しているが、焦りはなく気分はゆったりしている。

 本格的に夢日記を書き始めたのは高校1年の夏だから、かれこれ半世紀近くになる。当時、ひどい失恋にさいなまれ、悪夢の中で相手が毎回違う役柄で出てきた。そんな夢を記録することで苦しみを紛らわせたが、次第に破天荒な夢が面白くなり、枕元のノートに書き込む習慣ができた。

 ソウェトにきた当初は、寝床が変わったばかりなので小さな夢をいくつか見たが、その後見るのは、ノートに書くまでもない穏やかな、平和な夢ばかりだ。これが私には不思議でならない。

 東京では、卒業の単位が足りなくて絶望したり、リュックとスキーをかついで駅へと走るが、足がもつれ先に進まなかったり、といった小さな悪夢をよくみる。この手の夢は日ごろのストレスを、夢の中で遅刻などに置きかえ、心の暗雲を晴らしている、という解釈がある。

 東京での夢は小さな悪夢にとどまらず、行ったこともないモンゴルの大平原で馬賊に襲われ、特殊な武器で5寸釘大の針を何十本も脚に撃ち込まれながら逃げ回るものから、モンドドラゴンのような怪獣に追いかけられる大波乱まである。

 では、なぜソウェトでは悪夢や奇妙な夢をみないのか。1つ思いついたのは言語学習 の影響だ。

 新たな言語学習が記憶力を伸ばすといった論文はいくつもあるが、夢関連は少ない。学習が進むほど夢の中で新言語の度合いが増えるという、当り前のような 研究結果はあるが、悪夢との絡みを探ったものは見当たらない。

 夢の中でズールー語で考えているとすれば、日本語より稚拙で単純なものとなる。のんびりした私のズールー語の語り口に合わせ、夢もシンプルでふんわりしたものになる、という仕組みなのか。

 言語を生み出す土地のムードもある。常に話に笑いを織り交ぜ、細かなことを気にしないアフリカ人の時空間。そこに漬かることで夢も変わるはずだ。ネットで即座に情報が手に入る時代だが、ある土地で暮らすのは、単なる情報入手のためだけではない。その土地の言語で考えるということは、日々のふるまいから、感覚まで何らかの影響を及ぼす。必然、夢もその地に合わせたものとなる、ということなのか。

 でも、スペイン語やイタリア語を現地で必死に勉強していた30代から40代にかけて、派手な悪夢をみている。だとすれば必ずしも言語学習が夢を和らげるとは言いきれない。

 言語でないとすれば、当時といまの大きな違いは仕事だ。スペイン語やイタリア語を学んでいたころ、私は特派員として忙殺されていた。言葉を自分のものにする前に、日本語の原稿を書かねばならなかった。迷い、焦りが常にあり、締め切りの朝「夢でよかった」と目覚めることがよくあった。いまの東京の状況と同じだ。

 ソウェトではさほど原稿を書いていないので、ストレスが少ない。ズールー語の勉強をしなくては、という思いはあるが、義務ではないし、原稿のやりとりもほとんどないので行き違いも生じない。

 取材につき合ってくれる人への謝礼額でもめたことが一度あったが、そんな問題は話し合いですぐに解決できる。全般的にここの人々はお金がないことをのぞけば、ストレスを抱えたり、人にそれを押しつけることが少ない。

 予定通りにことは進まず、何を始めるのも遅く、お金を貸しても督促するまで返さない。日本の時間感覚でいると腹も立つが、こちらの暮らしになじめば気にならなくなる。むしろ、先の予定に細々と縛られない方が楽だ。

 そんな環境、仕事から解放された気楽な立場だから、ソウェトの夢は穏やかなのか。悪夢はストレスの有無が大きな要因ということなのだろうか。

 もう1つ考えられるのは、受け身の姿勢だ。特派員時代の自分なら、世界の話題、例えば「トランプ政権による南アフリカ批判をどう思うか」と住民に聞いて回り記事に仕立てたものだが、いまの私は彼らが語りだすのをただ待っている。マイクを突きつけ問いをぶつけるのではなく、頭をできるだけ空(から)にして聞き耳を立てる。いまソウェトでそんな姿勢を貫いているのは、ちょっとした躊躇、言葉選び、遠慮深さやあつかましさを通し、彼らの気質、頭の中を探りたいからだ。

 そんな受け身の立場が、夢を穏やかにしているのかもしれない。

 自分はもともと受け身の人間で、計画を立ててぐいぐい進むより、衝動や直感、激情を待つ方だ。

 50代までは父親、記者として能動的な人間を演じていた。そうあらねばならないと思い、どこか無理していたところがある。でも、いまの取材手法は元々の自分の気質になじむから、心に無理が生じない。日々の仕事のストレスの少なさと受け身の取材方法。どちらが大きいかはわからないが、この2つが私を悪夢から遠ざけている。

 とりあえず、そんな結論に至ったが、実際、このソウェトで夢をみるまで、私はそれを深く考えはしなかった。この地に暮らす実体験を通し、初めて知ったことだ。

 日本に帰るのが少し怖い。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)