2024年5月号掲載
南アフリカから22時間かけて成田空港に着いた途端、すでに「日本モード」に なっている自分に気づいた。飛行機から降りると、いそいそとチケットを買い京成スカイライナーに乗った。土曜日の午後9時。普段はガラガラの車両は珍しく混んでいる。30代半ばに見える男性の隣に、「失礼します」と言って席についた。が、男性は返事をしないどころか、こちらを見上げもしない。
そうだ。そうだった。私は日本モードをさらに強め、日暮里駅まで無言ですごした。車内には結構外国人もいるが、話し声一つしない。チリ一つ落ちていない。
日暮里で山手線に乗りかえ、車中の人々の顔をさりげなく眺めた。2駅先で若い男女が乗ってきて、女性が私の右脇に座り、男性は彼女の前に立った。席を譲ろうかと思ったが、相手は20代。私よりかなり若いので、そのまま座っていた。正面に空席があり、女性が「あっち、空(あ)いてるよ」と言っても、男性は彼女の前で立ったままだった。2つほど駅をすぎたところで、左端が空いたので、少し 迷ったが、私はそちらに移り、男性は私がいた席に座った。
そのとき私は「ここ、どうぞ」とも「あっちに移るから」といった所作もせず、 単に左端の方が快適だから移ったまでですよ、というさりげなさを装い、彼らの方をうかがうこともなかった。
次の駅は池袋だったため、客はどっと降りた。彼らもすっと立ち、私の前を通りすぎようとしたとき、女性が私に軽く会釈し、男性は私を見て「ありがとうご ざいました」と言った。礼を言われるとは思わなかった私は嬉しくなって、男性に笑顔を向けた。 そのまま、日本に着いたばかりの私は、本を読む気も携帯電話をいじる気もせず、ぼんやり車内を眺めていた。
一人で乗っている人が大半だが、二人連れも家族連れも、申し合わせたように沈黙を守り、無表情を装っている。中には、少し怒ったような顔をしている人もいる。ひとり一人、顔をうかがうと、こちらの視線に気づいているはずなのに、誰も目を合わせようとしない。そのとき、ほんの短い瞬間、私の気持ちが動いた。
この感じがまさに東京だ。誰も携帯電話で音楽をガンガン鳴らしたり、スピーカーフォンで話したりしないどころか、私語さえ慎んでいる。そして、できる限り人と目を合わせず、人にあえて関わろうとしない。漂うのは、妙なほどの静けさ。
以前は、成田空港に着いた途端に感じるこの雰囲気が嫌いだった。段々と慣れ てはいくが、何か冷たい、暗いものをそこに感じていた。例えば中米から戻った25歳の秋や、スペインから帰った27歳の春、私は、「ああ、帰ってきてしまった」 と心の中で人々の冷たさをなじったこともあった。なぜ、もっと人と交流しないのか。なぜ笑みを見せないのか、と。
ついこの前までいた南アのソウェトでは、どこに行っても、ひっきりなしに人が絡んでくる。私が現地で珍しい東洋人だからという面もあるが、彼らの間でも見知らぬ者同士が言葉を交わすのは自然な流れだ。そんな余裕がなくても、とりあえず笑みを交える。
英語のハローに近いズールー語のあいさつ「サウボーナ」は「私はあなたを見ています」という意味だが、「大事に思っています」「受け入れています」といったニュアンスがある。
「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」はどれもこの「サウボーナ」で済む。この言葉に続くのは「調子はどうですか」を意味する「ウンジャーニ?」という問いかけだ。その際、言いっぱなしではなく、「おとうさん(バーバ)」「おじさん(マルーメ)」「おねえさん(シーシ)」など、相手の年格好に応じた呼びかけを添えるのが礼儀となっている。
東京では見知らぬ人に「すみません」と声をかけることはあっても、呼びかけは微妙だ。「おとうさん」「おねえさん」と付け加えることはあるが、店での売り買いを除けば、ちょっと言いづらい。
「すみません、おとうさん」「ちょっと、おにいさん」などという呼びかけは、私が子どものころはよく耳にしたフレーズだったが、最近はどうだろう。どこか、馴れ馴れしい感じが口裏に残る。コンビニで物を買う際、「ありがとう」とは言っても、「ありがとう、おねえさん」「じゃあ、また、おにいさん」などとは言いづらい。
私はあなたという存在を認め、あなたに関わっていますよ、という態度表明なのだが、東京の場合、逆に、私はあなたと関っていませんというふるまいの方が大事なのだ。関わらない、邪魔しないのが一つの礼儀、たしなみだからだ。
それが好きではなかった。自分はさほど陽気でもなく、外交的でもないのに、成田に戻るたびに、そんな人々のあり方、振るまいに違和感を抱いてきた。
でも、その日はどうしてそんな気分になったのか。山手線の人々を見渡していたとき、得も言われぬ感動に襲われ、一瞬、涙が出そうになった。
そう、これこそが、私が幼いころからなじんだ東京人じゃないか。彼らだってあの若い男女のように、少し恥ずかしげに「ありがとう」と礼を口にするし、心の中ではさまざまな感情が動いているはずだ。それを無表情で隠し、人の迷惑にならないよう、気持ちを抑えている。
そう思うと、彼らがけなげに思えたのだ。けなげなどと言うと、なんだかエラそうだが、昔から連綿と続いてきた東京らしさに、愛着、親しみを覚えたのだろう。それで私の心は動いた、そうとしか思えなかった。こんなことは初めてだった。
これが東京じゃないか。それでいいじゃないか。そんなふうに思ったのはアフリカ体験の反動だろうか。それとも年を重ねてきたからだろうか。どうしてそう思えたのか。自分の感覚が不思議だった。
●近著
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)