自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

アフリカの男と女

2025年5月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

  南アフリカを離れ帰国する前、近所のシェビーン(安酒場)に顔を出すと、かっぷくのいいママ・ロロがふてぶてしい声で言った。「アキオ!結局、あんたに紹介できないままだったね」。「何をだよ」と聞き返すと、「へん、アマチェリーだよ」といたずらっぽい目で笑う。アマチェリーは英語からきたズールー語の造語で、恋人、愛人の複数形を意味する。

 すぐわきのテーブルで腕組みしていた、ママと同じ40代後半の女性マゼティも「ほんとだよ、アキオ、半年もいたのに、どうしたんだい、これは?」と左右の乳房の前に交互に指を立てる。女を意味するアフリカ人特有のジェスチャーである。

 いま日本の職場で、例えば「今度来る人は女性か?」と聞く代わりに両胸に指を立て、「これか?」などと聞こうものなら、コテンパンに言われそうだが、この地では男も女も同じ仕草をする。そもそも「セクシュアル・ハラスメント」という言葉も観念もさほど浸透しておらず、日本で言うなら昭和の感覚がまだ残っている。少なくとも私が暮らす旧黒人居住区のソウェト周辺では。

 男尊女卑なのかというと、そう単純でもない。パーティーや冠婚葬祭で人が集まれば、必ず男女に分かれて固まり、男の場合、年配と若輩に分かれる。差別というよりただの慣習だ。女性が男にかしずきおとなしくしているといったことはなく、近所で怒声をあげて相手を殴りつけるのは大体女性だ。もちろん、女性が被害に遭う例も多いそうだが、密室で行われているのか、8カ月ほどの滞在中に私は目撃していない。

 ママ・ロロと別れて、家に戻ると、今度は友人の妻で30代のムバリが近所の友達とおだをあげながら、「結局、アキオに女を紹介できなかった」と同じことを言った。  「いらないって」といつもの返事をすると決まって同じやりとりになる。「なんで?」「日本に妻がいるから」「でも、こっちにはこっちのアマチェリーを作ればいいじゃないか」「そんなのつくったら大変だよ」「何言ってんの。普通のことだよ」「でも妻が来たら困るじゃないか」「そのときは、そのとき。アキオは心配しすぎなんだよ」

 アキオという音は、ズールー語に近い部族語、ソト語で「私はここにいない」という意味になる。それだけで笑えるせいか、女性たちは気安く「アキオ!」と呼び、からかいの対象になりやすいが、彼女たちのおせっかいは半ば本気だ。

 ひとり暮らしの60歳の俳優タフィは「ひとりが一番だよ」と言い、笠智衆のような風貌もあいまって、枯淡の境地に見えるが、聞いてみるとアマチェリーが3人もいるという。「3人?」「入れ替わり来るけど、金がないから、面倒みちゃいられないよ」とすましている。

 ズールー語の先生、ムザマネにその話をすると「タフィは服のセンスがいいから、ファンに追いかけられて、若いころは10人はいたんじゃないか」と言う。元高校教師のムザマネは月に15万円も年金が入り妻子に囲まれ静かに暮らしているが、息子と娘計4人は独身なのに子供が何人もいる。ムザマネも孫ができた喜びが先に立ち、息子と娘が片親であることは気にしていない。

 実際、40そこそこの元俳優ツァバンは子供が9人もいて「母親は全部違うし、同学年の子も結構いるんだ」と笑いながら言う。自慢げでもある。近所で所在無げにしている20代の小柄な男も、田舎や町に6組の母子がいて、「2番目の娘の母親が金を持っていかないと家に入れてくれないんだ」とこぼしては、仲間に笑われている。

 みながみな、そうなのかと言えば、そんなことはない。23歳の音楽プロデューサーの卵、シポは「俺は子供はつくらない」とぽつりと言った。「無職なのに子ができたら、その子がかわいそうじゃないか」と。15歳のころ、母たち家族を火元が原因の一酸化中毒でなくし、音信不通の父に頼ったら、逃げられた過去がある。

 進学や修学旅行のたびに電話で送金を頼むと「おばあちゃんに送っとくから」と言っては、結局送ってこない。「そんな思いをさせたくないから、子供をつくらないんだ」  複数の妻を平等に扱う一夫多妻制は有名無実となり、ロボラ(結納)も払わず男女がくっついては離れ、子供ばかりが増える社会となっている。気楽そう、自由そうだが、個々の気持ちは日本人一般とそうは変わらない。職がなければ情けないし、子供の前では立派な親でいたい。ただし、それが叶わなくとも、悪し様に批判はされず、「しょうがないやつ」として受け入れられる土壌がある。

 追い込まれない十分な隙間があるのは、子供をみなで育てる互助の精神がまだしもあるからだ。だが、政府が配る子供手当はわずかなもので、一人にかける教育費は限りなくゼロに近い。無職の子沢山は例外中の例外になりつつある。

 居候先に暮らす32歳のタタには妻との間に12歳の娘がいる。あるとき「ちょっと出かけないか」と言うのでつき合うと、徒歩30分ほどのショッピングモールにあるケンタッキー・フライド・チキン(KFC)に行くという。外食なんて珍しいなと思っていると、ランチボックスを一つ買うだけだった。「あした、(娘の)ララの遠足だからね。ララ、KFCが大好きだから」と箱が崩れないように大事に捧げ持って、また30分歩いて家に戻った。その用事に私も含め男たち4人が同行する。

 タタは始終うれしそうだった。一人娘を大事に大事に育てる。それがごく標準になりつつあるのも、またこの地の一つの光景だ。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)