自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

無目的な旅は人を寂しくさせるか

2023年12月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 珍しく感情が波打った。割とすれっからしで、感情の上下が乏しい方だが、日本を出るとき、寂しい気持ちになった。スペイン経由でアフリカへ半年ほど行くため、この11月6日、妻と羽田空港に向け車を走らせていた。そのとき、彼女と離れる寂しさを覚えた。

 寂しいだけではない。虚しい感じがそこに加わっている。虚しさはどこからくるのか。言葉にすれば、自分が何をしようとしているのかよくわからない不確かさに、足元がゆらゆら揺れる不安感が加わったような気持ちだ。

 こんな気持ちになったのはずいぶん前のことだ。25歳、1986年の中米行きだった。結婚前、つき合って半年あまりの今の妻が成田空港まで見送ってくれ、似た寂し虚しさを覚えた。その後、何度も海外へ行ったが、そんな気持ちになることはなかった。もしかしたら、今生の別れになると予感したからかとも思ったが、違うだろう。なぜなら、4年前、ヒマラヤのダウラギリに登りに行ったときは、死の危険がはるかに高いはずなのに、寂しい気持ちにはならなかった。互いの老いかとも思ったが、つい去年の春、南米のチリに行ったときには寂しくはならなかったので、それも違う気がする。

 この気持ちの出どころはどこだろうか。ひとつ考えられるのは、旅、移動にはっきりとした目的がないということだ。ダウラギリはもちろん、チリ行きも長男を訪ねクライミングをするという目的がはっきりしていた。

 25歳のときの中米行きはアンデスに向かうという漠然とした最終目標はあっても、さして急がず、スペイン語もおぼつかないまま、ふらふらと漂っていた。今回も南アフリカの友人たちに会うという用事はあるが、そこに至るまでの経路、時間はあいまいなままだ。つまり、明確な目的のない移動という点で2つの旅はよく似ている。

 目的があった方がいいようにも思う。だが、それをはっきりさせてしまうとつまらなくなる。経験上、それがわかっているから今回のアフリカ旅行の目的を私は明確にしていない。仮に、こういうものを書くためと決めたとしても、大方はうまくいかない。というのも、アフリカという地について部外者である私が何かを企画したとしても、明らかな先入観、間違いが入り込んでしまうからだ。実際に取材を始めて早々に企画を取り下げたことは数しれない。

 部外者は無知と偏見の塊だ。外のイメージと内の現実との差は常にあるが、それがもっとも大きい大陸がアフリカだ。

 リンガラ音楽を題材にコンゴ民主共和国(旧ザイール)を巡る「命のビート」という企画を始めたことがあったが、この国を訪れた途端、捨て去った。民は疲弊し、停電続きで音楽どころではなかったのだ。 奴隷貿易が現代にどのような影響を残したかを語る「奴隷世界といま」という企画も、当のアフリカ人たちにさほどの被害者意識がないため、よそ者が無理に仕立てた「物語」になった感があった。

 企画、つまり企てが通用しづらい世界なのだ。企てがなじまない、企てが生まれづらい土地とでも言おうか。 今回の旅行を前に私がアフリカを去った2001年以降の歴史をおさらいし、その間に出た西アフリカの小説や学術書に目を通してみた。ある程度狙いを絞りたいという欲からだ。でも特段のテーマを決めなかった。決めてしまうと、そこに注力するあまり大事なものを見落としてしまう。極端なことを言えば何も取材しない。ただ、慌てずに最低限の手段でアフリカの西海岸を移動する。そこで何かを感じ、何かを書けばいい。そんな態度の方がいい。

 日本を出るときの寂し虚しい感じは、この態度から来ている気がする。 例えば出張、転勤のように、第三者が関わる理由があれば、それは致し方ない業務で、自分を納得させることができる。しかし、行き先だけを決め、何をするのか不明なままの旅立ちは、あくまでも自分一人で決めたことだ。当然のように自問が生まれる。

 お前は何をしに行くんだ。行く必要があるのか。なぜそんなことをするのか。しかし、究極を言えば、旅行とはそんなものではないか。目標もないまま漂う散歩の延長のようなもの。

 ところが普段の私は無目的な移動が好きではない。あてもなく散歩をする人がいるが、私はそんなことはしない。目的の決まっているところへ最短距離で行く。

 普段はしないのに、なぜ長旅では、そんな無目的なことをしてしまうのか。冬山はどうだろう。年末年始、テレビを見ながらコタツで熱燗でもひっかけていればいいものを、寒い中、わざわざ山に登って、という話だ。これも似てはいるが少し違う。冬山の場合、音のない真っ白い世界に浸りたいとか、過酷な中に身を置いてみたいなど、目的がそれなりにあるため、出発時に嫌だなあとは思っても、寂しさはない。

 目的のない自主的な長期の移動は、当時者の感情を波立たせる。それが、近親者と別れる寂しさ、自分の存在の不確かさ、虚しさを感じさせるのだろう。

 それでもしてしまうのは、当人たちがその感情の波立ちを、どこかで期待しているからではないか。普段は眠っている感情が露わになり、それがなんらかのプラスになると行為者は暗にわかっているから。感情の波立ちは、涙と同じように清涼感を与えてくれる。そこまで考えると、目的のない旅は希少なものに思えてくる。

 

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