自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

アフリカに行く理由

2023年8月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 「お父さん、過去に囚われてるんじゃないの。ノスタルジーはダメだよ」。ロサンゼルスから一時帰国している娘にそう言われた。「カズオ・イシグロが書いているのはずっとそのことなんだよね。過去に囚われている人の話」

 大作家を引き合いにしてくれるなんて、いいじゃないか。でも、イシグロはそれをわかってやっている。彼は、過去に囚われている人を対象にしているのであって、彼自身が囚われているわけではない。

 一方の私は、イシグロの主人公たちのように、過去に、アフリカに囚われているということだ。「次は何をするの?」と聞かれ「秋からしばらくアフリカに行こうと思う」と答えると、娘はそう解釈した。

 当たらずとも遠からずだろう。

 実際どうなのか。強い衝動ではない。センチメンタルジャーニーでもない。一つあるのは、ケレという名の友人を再訪したいという具体的な理由だ。その背後にとってつけたような理由がついてくる。ヨハネスブルクの凄まじい雷雨直前の空をまた見たい。赤土の匂いを嗅ぎたい。人の群れを見たいなどなど。

 ケレは私がヨハネスブルクに暮らし始めた直後に知り合った同い年の男だ。当時はふたりとも34歳だった。

 アフリカに赴任してみると、見事なほど何もなかった。前任者から車や家具、小間物を買い取り、彼が暮らした邸宅に入ったまでは良かったが、スタッフがいなかった。

  「アフリカはなんでもゼロからやるんだよ」と前任者は言っていた。のちのち「な るほどな」とは思ったが、人を一人も紹介しないとはどういうことかと首をひねった。というのも、私はその5年半後に離任する際、南アフリカのみならず、他の国で世話になった人たちを後任者に紹介したからだ。

 でも、誰一人スタッフがいなかったおかげで、私はケレに会うことができた。

 着任早々、 中心街のマーケットシアターという劇場で「オーラ・マチータ」という芝居が話題になっているのを知った。誰かに聞いたのか、新聞で読んだのか、たまたま入ってみたのか、そのあたりの記憶は定かでない。

 芝居はいわゆるプリズン・ストーリー、刑務所の話で、登場する囚人たちの歌あり笑いありのドタバタ劇だった。ズールー語はまったく、英語のセリフも半分ほどしかわからないのに、その芝居に引きこまれた。幕が閉まると舞台裏に行き、主演と演出に当たったチュラニ・デディというリーダーに取材を申し込んだ。

 彼らは旧黒人居住区、実際、後にも先にも黒人しか住んでいない街、ソウェトのピリという地区を拠点にした劇団、ポジティブ・アート・ソサエティーの面々だった。 ポジティブという言葉が当時の南アフリカを象徴していた。

 ときは1995年暮れの真夏。外から見たこの国の長年のイメージを代表するアパルト ヘイト、人種隔離政策がなきものとされ4年がすぎ、反人種差別の象徴だった弁護士、ネルソン・マンデラが獄中から解放され、大統領に就任して1年あまりが流れていた。

 一言で言えば「マンデラの時代」。南アフリカがもっともポジティブ、前向きだっ た時代である。先ごろ亡くなったノーベル平和賞受賞者の著名人、英国国教会のデズ モンド・ツツ大主教は自国を「レインボウ・ネーション」と名づけ、明るい未来をアピールした。レインボウは虹、つまり、あらゆる色が共存するという意味で、当時はまだLGBTQを象徴するものではなかったが、そのはしりとも言える呼び名で、白人、黒人、カラードと呼ばれる混血、インド系、それ以外の人々が融和するこの世で最も幸福な国を目指す、というニュアンスがあった。

 そんな時代に私は家族を引き連れてこの国に暮らし始めた。だから、劇団の名がポジティブだったことになんら違和感はなく、むしろ前向きにとらえた。

 チュラニと意気投合し、彼や彼の仲間たちに仕事を手伝ってもらうようになり、週末になれば彼らを我が家に招いてブラーイと呼ばれる、バーベキューパーティーを何度も開いた。

 そんな中、結局一番ウマが合い仲良くなったのがケレだった。本名はケレ・ンニャウォという当時スワジランドと呼ばれていた小さな王国に移り住んだズールー族系の末裔だった。彼は南アフリカの寄宿学校に高校を出ると会計事務所でまともな職についた。ところが、人種差別による諍いで職をやめざるを得ず、そのころから反差別を言い訳にイジャック、車を強奪する犯罪を重ねるようになり、ほどなく捕まり、長く囚人生活を送った、という話だった。

 私が面白いと一発で引きこまれた舞台の翻案も脚本も、ケレの手によるものだった。刑務所の描き方が妙なほど生々しかったのは、彼の実体験だったからだ。

 彼にはいい父母、兄弟がいた。そんな家族の支えで改心し、出所しても犯罪に手を染めず、脚本書きの道を目指したころ、私と出会った。

 ケレとずいぶんあちこちを回った。いつも私が運転し、彼が助手席に座っていた。寡黙な男で、「うわあ、すごい雲だなあ」「おお、そうだな」といった言葉を交わすくらいで、さしておしゃべりをしたわけではなかった。なのに、不思議と彼といると心が落ち着いた。深々とした安心感とでもいうのか。

 日本にも外国にもあちこちに友達、つまり、突然訪ねても大歓迎して泊めてくれた り、旅につき合ってくれたりする仲間はいるが、彼ほど気楽な相手はいない。多くの言い合い、けんか別れ、疑心があった末だからなのか、「おう」と言えばわかりあえる関係になっていた。

 数年前、そんな彼がフェースブックで友達申請をしてきた。長く連絡を取り合っていなかったが、便利な時代になった。手短なやりとりの末、彼がこんなことを書いてきた。「もう、俺たちはオールドメン(老人)だから、時間の残されたうちに、一緒に旅をしないか」 そのころ、彼も私も50代の末である。「オールド」と言うにはまだ早くないか、と笑ったが、待てよと思った。

 私は平均寿命が男女平均で84歳ほどの日本に暮らしている。でも、彼が暮らす南アフリカのそれは、私がこの国を離れた2001年よりも9歳も伸びたとは言え、64歳である。しかも、65歳以上の人口は日本は28%を超えているが、南アフリカは6%弱だ。

 日々年寄りを実感する環境にいる彼が「俺たちはオールドメン」と語るのも、さもありなんである。

 統計で言えば私にはまだ20年以上の寿命が残されているが、ケレには2、3年しかな い。彼が言う、「最後の旅」につき合ってもいいんじゃないか、というのが、私がいま企てている旅の趣旨だ。

 考えてみたら、アフリカの友人たちはみな私と同世代か少し下だ。統計が正しけれ ば、彼らはこれからどんどん死んでいく。いま、自由に体が動く私が訪ね歩かなけれ ば、彼らと会うことは二度とない。いや、人との出会いなどそんなものなのだが、「 おお」「おお」と言い合うだけでもいいではないか。もう一度会ってみたいのである 。  友人が一番多いのは南アフリカだが、ナイジェリア、コンゴアンゴラにも散らばっている。どうせなら、特派員時代にできなかったローカルバスの旅をしてみようかと、北アフリカから西海岸回りで南を目指そうかとも思っている。とにかく金をかけない居候旅である。

 かつての仲間に会い、月日の流れの残酷さ、人生の虚しさを感じたっていい。あるいは、気に入って、そのままその地に居続けることもあるかもしれない。

 なにせ、あんなに好きになったアフリカである。いつも目の前のことに追われ、二度と訪れないまま22年も過ぎてしまった大陸だ。それを、過去に囚われていると言うのなら、そう言えばいい。動機がノスタルジーだって、行ってみなければ、何があるか、何が起きるか、わからないじゃないか。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)