自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

欲望が消えたのか

2024年6月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 先日、久しぶりに東京の神保町で麻雀をした。きっかり午後5時半に到着すると、すでに3人は勢ぞろいしていて、あいさつもそこそこに勝負が始まった。こちらは半年ぶりだし、アフリカから戻ったとみな知っているのに、誰も何も聞かない。「アフリカ、どうだった?」「面白かった?」と聞いてくれると思い、小話をいくつか用意していたが、何も聞かない。そもそも関心がないのか、目の前の勝負に夢中なのか。

 3人は70代の前半から末で、私よりも一回り以上上の男たちだ。2人は元新聞記者 、もう一人は援助団体の役員をやっているが、特段、アフリカには関心がないようで、私は少しがっかりしながら牌を積もり続けた。「そろそろ晩ごはんを」ということになり、雀荘が用意している品目から、それぞれが好きなものを選んだ。一人は験をかついでいるのかいつもカツライス。残り二人はキムチ焼きそばで、私は「きょうのおすすめ」と書かれた海鮮丼を頼んだ。半時(はんとき)ほどすると、店の人が4皿同時に持ってきてくれたので、休憩となった。一般の寿司屋より盛りの小さな海鮮丼に箸を入れると、カツライス好きの男が「やっぱり日本のご飯が一番美味しいでしょう」と話しかけた。

 「そうですね。日本が一番おいしいですね、というか、食はやはりアジアですね」 と言ったものの、それはごく表面的なあいさつにすぎなかった。例えば、ラテンアメリカの場合、料理の味が複雑で手が込んでいるのは、メキシコとペルーである。かつて王朝があったのが大きな要因と言われるが、スペインのガレー船による400年以上にわたるアジアとの交易が大きいという説もあった。船が旧スペイン領フィリピンなど、アジア諸国に停泊する際、料理人が乗り込み、その味がメキシコのアカプルコ港 、ペルーのカヤオ港に伝わった、という見方だ。私はそんな話をさらっとしたあと、今の奇妙な感覚を彼らに披露した。

 「味覚が変わったのか、今回は5カ月ぶりに帰国してもそんなに美味しいと思わないんですよね」「へえ、アフリカと比べたら何でも美味しいだろうにね」「いや、アフリカは結構美味しいんですよ、特に西アフリカは。旧フランス領というのもあるけど、400年にわたる交易でいろんな味が混ざり合ってますからね」「へえ、そうなんだ」  すると、社用や会合で美食ばかりしてきた一人が「大体、藤原さんに味覚なんてあるの?」と言うので、ああ、いつもの嫌味だなと思い、それをそらすためにこう応じた。  「日本でさほど美味いと思わないのはなぜなんですかねえ。帰国前、一週間くらい風邪を引いたんですが、もしかしたらコロナの一種だったのか、という気もしますね。前、コロナになったときは、退院したあと、いつも飲んでいたビールや安ワインがずいぶん苦く感じましたから」

 そんなことにもさして関心のない彼らは、もうなんの問いかけもしなくなり、また 黙々と勝負事にいそしんだ。その話が尾を引いたのだろう。私は味覚や食について、あれこれ考え始めた。帰国後、家で食べた麻婆豆腐やカレーは確かに美味かった。だが、それは、やはり美味しかったというだけのことで、あれを食べたい、これを食べたいという気持ちが明らかに薄れている。健康だから腹は減るので食欲はあるが、食に対するこだわり、欲望が見事なほど薄らいでいる。自分で「見事」というのも少し厚かましい話だが。アフリカで5年半暮らした30代のころは、砂漠地帯や戦場に行くと、会社のビルの 地下にあった赤坂飯店の五目焼きそばを食べたい、そこに辛子をつけて酢をふってガッツリ食べたい、カツ丼にがっつきたいと思ったことはあった。だが、今回のアフリカでは、そんなことをまったく思わなかった。なぜなのか。

 一つには取材もそうだが、とにかく何事も受け身に徹したのが大きい気がする。北から西アフリカへの移動中は居候先で出されたものや、知り合った人に連れて行かれた市場にあるものを淡々と食べていた。食べるときはいつも「飢餓状態 」なので、米をスープで煮込み、具がほとんどないものでも、大皿を若者たちと手やスプーンで突つけば、目を瞑って「ああ、うまいなあ」と思ったものだ。3カ月いた南アフリカの居候先で自炊をしようとすると、友人の妻が「食事は私に任せて」と言い張るので、出されたものをただ食べていた。ところが、この人は結構気まぐれな人で、いいときは時間をかけて贓物料理や挽肉カレーをつくってくれるが 、気分が乗らないと1日1食ということも多く、私は空腹状態にかなり慣れた。

 いつも彼らと同じものを食べていたので、「お前はもうアフリカンマンだ」などとよく言われ嬉しくはなったが、それは飢えに慣れるということだったのかもしれない 。彼らはどんなに腹が減っても、がっついたりはしない。間食もほとんどしない。大皿をみなで囲むときも控えめで、肉などの具を客人の私の方に「ほら、食べて食べて 」と寄せてくれる。そして、早々に「もういいや」と切り上げるのは、腹八分目に慣れてる証拠だ。

 食への欲望が薄らいだのは、そんな経験がものを言っている気がする。だが、東京在住の鍼灸師で友人の中国人、孫俊清さんにその話をしてみると、「それはいいことなんだよ」と言う。人は修行を積めば積むほど、欲望を消していく。最初は名誉欲も含めた物欲で、次に食欲、最後に性欲がなくなっていく、と言う。

 私は何もアフリカに修行に行ったわけではないが、自然とそうなっていったんだというのが彼の解釈だった。 だとすればちょっと嬉しい。欲は人をいらだたせ、ときに大きなストレスになるのだから。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)