2021年12月号掲載
コロナが下火になって少しずつ、いろいろな会合に出向くようになった。その中の一つで久しぶりに会った80代の女性にこう言われた。「あなたは本当に書くことが好きなのね。それと読むことも好きなのね」。この方は20年来、私の新聞記事を読んでくれている人で、10月12日に毎日新聞の夕刊で連載が始まった「酔いどれクライマー 永田東一郎伝」を指してのことだ。別の機会に60代の男性から同じことを言われたので、あの評伝を読んだ人にはそう感じる人が結構いるようだ。
筆者がいやいや書いているか、喜んで書いているかは、読み手に伝わる。ただし、それがいい原稿かどうかは別の話で、例えば、小説の場合、自分が調子よく書いているときは独りよがりに陥っていることが多い、といった話をする作家たちが結構いる。苦しんで苦しんでどうにかできあがった文章を読むと「なんじゃ、これは?」と自分でもあきれるような作品の方が案外評価が高かったりする、というのは作家、吉村萬壱さんの言葉だ。楽しんで書いたかどうかで原稿の善しあしが決まるものではないという話だ。
読み手の方たちが言うように、私は「酔いどれクライマー」を結構、喜んで書いている。連載の一本目を書くまでは不安の日々が続いた。いざ書きだすと2時間くらいで終えてしまうのだが、それまでは、どういう形にするか、こんな無名の人を書いて誰が読むのか、いや、どうすれば読ませることができるのか、本当のところ、俺は何を書きたいのか、なぜこの人のことにこだわるのか、と数週間も煩悶し続けていた。
それでも、一本目をとりあえず書き上げると、すっと気持ちが楽になり、その後の1カ月で6本を書き終え、4本が掲載されたところだ。そして、毎週金曜日と決めている原稿執筆の日が楽しみになっている。
今年4月27日、60歳の誕生日に私はコロナを発症した。5月1日に入院し17日に退院するまで中等症のⅡという重症の一歩手前までいった。明鏡止水という言葉があるが、その際、入院当初からずっと気持ちというか、心というのか、精神が落ちつき払っていた。そのとき夢うつつでいろんなイメージや文字が出てきたが、その一つに「軸索」という言葉があった。実際の軸索とは違うが、それは太い電線のような管、パイプ状の円筒の形をしていて、その入り口というか、片方の側にニクロム線のような細い線が束になってみっしり詰まっている図だった。
それが高熱の中で現れては消えていたが、入院も後半になると、その数百本ものニクロム線の束が管の片側だけとなり、反対側の管の出口には数本しかないという図になっていた。
そこに私は私なりの意味を読みとった。
あのニクロム線の束は私がこれまで追ってきた、またはかき集めてきたテーマを指している。反対側の数本は、そのうち本当に私がやりたいテーマ、あるいは私の中に残るもののことだ。つまり、残る人生はもっと身軽に、シンプルにいけというメッセージだと私は受け止めた。
新聞記者、特に海外特派員は貪欲で、やってみたいテーマが雪だるま式にどんどん増え、資料の山は大雪崩(おおなだれ)寸前となる。私は退院すると、とっちらかっていた無数のテーマを整理し、ごく少数に絞り込んだ。その一つが人物伝もので、中でも自分がとことん好きな人、面白い人を書きたいと思い、出てきたのが永田東一郎さんだった。亡くなったのは2005年なのでもう16年も前だが、私が彼の死を知ったのは2017年で、私にとって彼を失ったことがまだ新鮮だったというのも大きい。死を知った直後、ノートに「永田東一郎物語」と書き残していることから、私はその時点ですでに書くつもりでいた。
これを書くため、今は他の仕事を減らし、よりシンプルに、これだけを考えようと思っているが、結局、やっていることは一緒だと気づいた。テーマが幾多あって同時並行でやっていても、たった一つであっても、最終的に原稿に仕上げるための細々とした調べ事や読み込みに費やす時間、エネルギーは変わらないのだ。時間があればあったで、永田さんがらみの、あるいは彼がいた時代についてのあらゆることを調べつくし、結局、原稿には1行も反映されないということが繰り返される。
数百本のニクロム線が数本に減っても、気づくと、その残った数本が太い軸索となってその中に数百本のさらに細いニクロム線がつまっている。そんな状態になってしまうのだ。何事もシンプルにできない性分なのだ。
それでも読み手に私の楽しげな様子が伝わるのはどうしてだろう。
一つは私が書いている人がもう死んでしまったからだろう。高校の先輩で1978年から95年ごろまで濃密につき合った永田さんの、強烈なキャラクターを私は惜しんでいる。その彼をもっと知りたいと思い、彼が書き残したもの、友人、知人らの証言、写真、音声、ビデオをかき集めた末、いざ原稿に向かう。その原稿の中で彼は確かに生きている。私は書くことで彼を生き返らせようとしている。生き返らせるとは大げさだが、彼がまるでそこにいるかのように、立ちあがらせようとしている。
人々が語る永田さん、永田さんが残した言葉、それらがうまく反応して、私は原稿を書きながら思わず「くっくっく」と声を上げて笑い、「そうか、もう永田さんはいなんだ」と彼の不在に、「うっ」とこみ上げそうになる。きっとそんな私の入り込みが読み手に伝わるのだろう。そう思うと私はいま、従来の書いてきたこととは違う、初めての体験をしているのかもしれない。
●2023年8月発売『酔いどれクライマー永田東一郎物語』(山と溪谷社)
●近著
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)