自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

酔いどれクライマー、永田東一郎の生きた時代

2021年10月号掲載

毎日新聞契約記者(当時)/藤原章生

 

 どんなふうに書き始めようか。私にとっては今が、新しい連載を始める前がもっとも贅沢でうれしいとき、という気がする。

 毎日新聞のサイトにある「医療プレミア」で2020年2月から7月まで連載し、「紙でもやってほしい」と言われ、その年の10月から火曜夕刊と一部地方は土曜朝刊で連載した「ぶらっとヒマラヤ」が9月末に終わる。連載中の今年2月に本になるという異例の形をとりながら、ようやく終わりとなる。

 次に何かやってくれという話になり、まだ仮のタイトルだが、「酔いどれクライマー 永田東一郎の生きた時代」という評伝を10月第2週から連載することになった。昨年9月、この欄「自分が変わること」の136回で「もう会えない人、もう帰れない時代」というタイトルでこの人について書いたのをご記憶の方もおられるかもしれない。

 

 私は一度だけ評伝を書いたことがある。取材で知り合った森一久さんという原子力界に最も精通していた人で、彼の書き残したもの、彼を知る人物について調べ上げ、原稿を絞って絞って、この人の生涯を書き綴った。出版社の意向で副題と題名が逆になり、「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか―“最後の弟子”森一久の被爆原子力人生―」(2015年、新潮社)というタイトルになったが、明らかに森さんの評伝だった。

 一人の人間を調べ尽くすうちに、最後はその人になりきったような気分になったので、自分は評伝書きに向いていると思った。ただし、相手に惚れ込むか、強い関心を抱いていないと書けるものではない。そんな折、この人のことを書きたいと思う人が出てきた。それが永田東一郎さんだ。私がいた都立上野高校山岳部の3年先輩で留年を重ね8年もいた東大スキー山岳部時代に奇想天外と思えるほど活躍した人だ。27歳で大学を卒業すると山登りをスパッとやめ、建築設計の分野でもがき続けたが、最後はいくら図面を描いてもお金にならない日が続き、アルコール依存がたたり46歳の年、静脈瘤破裂で亡くなった。2005年2月28日のことだ。

 1990年に結婚した彼のマンションを1、2度訪ね、子供ができたことを年賀状で知ってはいたが、私がアフリカに行く1995年を最後に会わずじまいになっていた。彼が亡くなった2005年、私はメキシコに暮らしていた。最初の本「絵はがきにされた少年」で開高健賞をもらい、以来、2年に1冊の割合で本を書くようになる直前のことだ。

 彼が死んだ翌年、2006年に日本に帰り、2年後にイタリアに転勤し再び東京に戻り、郡山に転勤し、また東京に戻りと動き回るうちに、10数年が過ぎた。目の前の雑事に追われ、学生時代の多くの仲間たちと同様、会ってみようという気にならないままだった。それでも「永田さん、どうしてるかなあ」と時折、一緒に登った奥多摩を歩いたり、谷中や田端の石垣や、彼が暮らした日暮里のアパートの辺りに行くと、彼の雰囲気を思い出していた。それでも、永田さんには、何となく連絡しづらいところがあった。その気持ちは何なんだろうと今でも思う。

 2019年、フェイスブックで連絡してきた先輩二人と久しぶりに会おうということになり、御徒町で飲んだとき、「永田さん、どうしてます?」と聞いたら、二人から「えっ、お前、知らないの」と言われた。「もう随分前に死んだよ」「えっ、なんで」「酒の飲み過ぎだよ」

 それから、折に触れ、元妻や友人たち、大学時代の先輩や後輩らに会って、永田さんの話を聞いた。特に私が知らなかった95年から亡くなる2005年までの10年間の様子をたずねた。

 調べ尽くしたと言うにはほど遠いが、私は今、永田さんのことを書こうとしている。このまま書かなくてもいいや、とも思ったが、例えば、南米にしてもアフリカにしても中国にしても、次の対象に向かう前に永田さんのことを書かなければと思っている。

 なぜなのか。何を書きたいのか。彼は私がこれまで会った人の中でも最も強烈な人だった。何が強烈かと聞かれても、即答は難しいが、一つは登山のみならず、生きることへの情熱をあからさまに表に出す人だった。それがときに人の批判や愚痴、酒をかっての鼓舞となり、言わなくてもいいことを言う人でもあった。「お前、丸くなったな」「ひよってんじゃねえよ」「あれは大した(登山の)記録じゃないな」と、私も自分の山登りについて、そして就職したことなどについて、何度となく批判的なことを言われた。

 彼はすっきりした岩のルートを美しく華麗に登っていくクライマーではない。谷底の滝壺の脇で全身びしょ濡れになり、ヘルメットから雨粒を滴らせながら、ザイルを手に静かにうつむいている。そんなイメージが浮かぶ。あれこれ文句を言い、泣き言も言う割に、叩いても叩いても死なないような打たれ強さがあった。

 幾多の墜落、遭難を経ても死なず、世界が注目する栄光の登山を成功させた彼が建築という実業界に入った途端、道に迷い、最後は自暴自棄となって「遭難死」する。

 それは何だったのか。彼は何だったのか。その彼をうまく抱きとめてくれない社会とは何だったのか。私はそれを書きたいのだろうか。

 それは後付け、二次的な願望という気がする。そうではない。私は彼を、彼の魂を蘇らせたいのだ、とも思うがそれも少し違う。私はそこまで魂を信じてはいない。

 きっと私は彼がいた時の、その瞬間を、私が彼と過ごした1978年から95年までのうちの、ほんの一瞬でもいいから、彼がいる、彼の佇まいを感じさせる風景を書いてみたい、書き残したいということ、という気がする。

 どんなものになるだろうか。とても不安だし、誰が読んでくれるかもわからない。でも、とても豊かな、嬉しい気分になっている。

 

●2023年8月発売『酔いどれクライマー永田東一郎物語』(山と溪谷社)

www.yamakei-online.com

 

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『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)