自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

もう会えない人、もう帰れない時代

2020年10月号掲載

 毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 永田東一郎という人がいた。3つ年上だった。私が都立上野高校に入った年、彼は卒業し、私が高校2年になり山岳部に入った春、彼は東大の理科一類に入った。山岳部の別の先輩が「永田さんって名前の通り、東大、一浪で入ったもんなあ」とからかい半分に言っていた。

 永田さんに初めて会ったのはその年、1978年5月の中頃だった。山岳部の部室は校舎の屋上の天文台の中にあり、奥を地学部、手前を山岳部が半分ずつ使い分けていた。1年のとき、軟式テニス部に入ったが、「◯◯さん、ファイト!」と声かけをさせられたり、ランニング中に「上高、ファイファイ、ファイファイ」と声を上げるのが嫌で早々にやめた。

 仕方なく一人で山登りを続けていたら、親しくしていた地学の先生から、「今、2年生がいないから、入らないか」と山岳部に誘われた。入部早々の5月のとても晴れた日のことだった。放課後、一人で部室にいると、銀縁メガネに長髪、赤いジャージ姿の永田さんが部室に現れた。

 初対面のときはいつもそうなのか、永田さんは緊張した、何かに気圧されたような情けない顔で、「あ、俺、(昭和)52年卒業の永田だけど…、君は…」とおどおどしていた。

 「2年生ですけど、入ったばかりの藤原です」

 「藤原かあ、そうかあ、俺、チュザックの練習の帰りでさあ、今も、トレーニング、一緒にやろうかと思って、来たんだけど」と突然、親しげな口調に変わった。

 「チュザック」は永田さんが二言目には使う言葉で、東京大学スキー山岳部の英名、Tokyo University Ski Alpine Clubの頭文字をとった略語TUSACを指す。他の大学の場合、明治か大正のころにまずスキー部ができ、それがスキー競技班と山岳班に分かれた末、山岳部という名になるのが主流だったが、東大は、分離しないままスキー山岳部という名が残った。

 私が2年後に入ることになる北海道大学山岳部の場合、北国の雪の深さ、軽さから冬場は山スキーがなければ山に入れないが、北アルプスなど主に本州の山に入る東大の場合、山スキーを使うことはまずない。なのに名前だけ「スキー」を残していた。名前からスキーをとれば、TUAC、チュアックとなり、音の響きは今ひとつで、きっと永田さんも「チュザックのやり方はさあ」「これがチュザックの走りだ」と、あれほど執拗に口にすることもなかっただろう。

 当時、永田さんは20歳になる前の19歳で私は17歳になったばかりだった。それくらいの年頃はぱっと気が合えば、同性でも一種、男女の恋愛みたいなもので、相手の話、相手のたたずまい、相手のあり方そのものに強く影響を受け、常に頭の中に相手が宿っている。私にとって永田さんはそんな存在だった。

 彼は東大の、念願のスキー山岳部に入り、よほど嬉しかったのだろう。後から考えれば、まさに人生の絶頂期へ向かう上り坂に立ったばかりの時だった。

 「不帰(かえらず)」「赤谷(あかたん)」「東大谷(ひがしおおたん)」と、そのときに彼がのめり込んでいた山の名前が私の中に魔法のように伝わり、私もつられるように山にのめり込んでいった。

 友達がいなかったのか、たまたま山に行かない日曜日は山手線の田端駅の脇にある石垣や皇居に近い常盤橋公園の石垣登りに連れて行ってくれた。東大の学園祭にも二人で行った。70年代の終わりなので、「80年安保はなぜ始まらないのか」といった討論会が開かれ、矢崎泰久が壇上で「みなさん、コカコーラを飲むのはやめましょう、米帝を太らせるだけです」といった話をしていたのを覚えている。

 東大の本郷の生協で昼飯を食べた時、永田さんはしきりに歯が痛いと訴え、「すラーメン」を食べていたが、「それならご飯と変わらないじゃないですか」としょうが焼定食を食べていた私が言うと、「いや、コメの飯の歯に当たる感じが痛いんだよ」と言いながら、ゆっくりとすラーメンを噛んでいた場面をなぜか鮮明に覚えている。

 ネグレクトなのか、永田さんは歯がずいぶん悪かった。家は母子家庭で、父親は永田さんが中学のとき、酒の飲み過ぎで死んだという話を私は最近初めて知った。永田さんが暮らす日暮里にある同潤会アパートを訪ねた時は、当時、上野高校にそういう生徒が結構いたが、時代錯誤と思えるほど貧しそうな暮らしだった。お母さんと言っても、私の目にはねずみ色の薄汚れた割烹着を着た痩せたおばあさんといった風情の人で、「東一郎、東一郎」と自慢の息子を可愛がっている様子が伝わってきた。

 狭い部屋に通されると、母親は「お友達なの、そうなの」と本当に嬉しそうに私の顔を見ながら、お茶を運んでくれた。「これ、俺のおかあちゃん」という永田さんの言い方も優しそうだったが、一人息子が危ない山登りばかりして、かわいそうだなと私は母親に同情した。

 彼は結局、大学にまる8年もいて、その間に登山の分野では企画力、実行力とも偉業中の偉業と言える、カラコルムのK7峰初登頂、南硫黄島探検、赤谷川ドウドウセンの幻の大滝遡行(そこう)をこなし、87年ごろを境に山をスパッとやめ、建築家を目指した。

 「藤原、脱構築って知ってるか。いまはポストモダンの時代だぞ。日本の古い建築界に挑戦しなきゃならないんだ」と、いつもの調子で人を鼓舞し、酒を飲めば「小さくまとまってんじゃねえよ」「お前、必死に生きてるか、丸くなってんじゃねえよ」と誰彼構わずからんでいく飲み方で、一銭も持たずに飲みに来るため、友人たちも次第に離れていった。最後は仕事もなくなり、離婚させられた妻の支援でなんとか生きていたが、肝硬変からくる食道の静脈瘤破裂であっさりと死んだ。2005年2月、46歳の早春だった。

 その当時、私はメキシコに家族と暮らし、中南米だけでなくイラクや米国などあちこちを駆け回っていた。永田さんとは95年にゴールデン街で飲んだのが最後で、私は昨年になって初めてその死を知った。聞いてみると、高校、大学のほとんどの友人に借金を重ねて飲み続け、死んだ直後、友人が部屋を訪ねると、焼酎のワンカップがいく本も畳の上に転がっていた。

 何が永田さんを転落させたのか。それとも、そもそも破滅型だったのか。永田さんが最も輝いていた70年代後半の空気を再現してみたいと私は今、思っている。

 

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