2023年9月号掲載
みながしていると思っていたことが、そうでもないことが、年をとってからわかるものだ。例えば、常に音楽が頭の中で鳴っていること。これは大方の人がそうだろう。私の場合、登山中に顕著になる。先日、北アルプスに行ったとき、その前夜のテレビ番組で、パッヘルベルのクラシック曲「カノン」があらゆる音楽の基礎になっているという話があり、何曲かのJポップを流していた。その一つが あいみょんの「マリーゴールド」で確かに、音の運びがそのままだった。
それが頭に残ったのだろう。沢に下り夕刻まで河原を歩いていると、鎭まった頭の中で延々と「マリーゴールド」が鳴っていた。しかもサビの部分だけ。「麦わらの帽子の君は 揺れるマリーゴールドに似てる」という歌だが、それに続く歌詞がおぼつかないため、そこで止まってしまい、同じフレーズを繰り返す。すると先に進めないのをごまかすかのように「カノン」が被さってきて、しばらくバイオリン三重奏が聴覚を蹂躙する。すると頃合いを見て、またあいみょんが出てきて「麦わらの~」と歌い始める始末だ。これはほとんど人にあることで、珍しいことではない。私の場合、これを抑え込むため、別の好きな曲を歌ってみるが、古い記憶よりも新しい方がエネルギーが強いのか、ほどなく「麦わらの~」が出てくるから始末におえない。
では、自問自答はどうだろう。先日、拙著『差別の教室』についてライターの千葉望(ちば のぞみ)さんからインタビューを受けた。文書の淡麗な人だが、彼女が妙なほど私の自問自答癖(へき)について質問を重ねた。彼女が書いた週刊誌『AERA』の記事ではその部分をこう書いている。
「本書では特派員時代の話にとどまらず、小学生時代に教員から理不尽な扱いを受けたこと、同級生から無視されたこと、心に溜まっていた澱をすくい上げ、遡って本質へと迫っていく。“僕の場合ちょっとしたトラブルがあったり、嫌なことを言われたりしても、その場では言い返せないことが多かったんです。でもそれが実は心に重く残っているので、グジグジと自問自答するわけです。『相手』が自分の中にいて、あれこれ言い合いをするうちに『これはこういうことだったのか』と思い当たる。差別は単純な話ではありませんからすぐ結論は出さず、『あの時彼は自分を恐れていたのではないか?』などと推測するうち、だんだん見えてくるものがあります”」(一部略)
こうした自問自答はみなやっていると思っていたが、千葉さんがそこを面白がったのを思うと、誰しもというわけではないようだ。私の場合、出来事や人のセリフの残り方が重く長いのが特徴かもしれない。1年どころではなく、数十年にわたって折々顔を出す。相手に報復したいといったことではない。むしろその相手が私の中に巣食い、私のキャラクターの一つとなって、自己正当化を図ろうとするオーソリティーの「私」と対決する。つまり私の中にあるAとBというキャラクターが問答を繰り返すのだ。
先日もこんなことがあった。もう十数年前から毎年ある人の別荘に8人が集まり、麻雀をする催しがある。自慢したいわけではないのだが、その大会で私は今年、圧倒的な点数で優勝し、二連覇してしまった。集まるのは主催者の顔の広さから全く業種の違う人たちで、年齢は70代以上が中心。62歳の私はずっと「若者」と呼ばれている。するとその中でも最も負けず嫌いの年長者が、帰る日の朝から「こりゃ、もう暴力だね、詐欺だね」などと延々と私に嫌味を言いつのった。「いやあ、負けたくてもうまく負けられないんですよ」と減らず口で返したら、彼はますますボルテージを上げ、打ち上げの昼食会でも「大体、藤原さんには惻隠の情ってものがない。長幼の序も知らないんじゃないか」などと言う。互いに冗談半分の口ぶりだが本音も織り交ぜている。黙っていればいいものを私はこう言い返した。
「僕は70年代の高校出身ですから、長幼の序なんてことは最近まで知りませんでしたよ。大体年齢なんて関係ないんですよ。20歳でも尊敬できる人はいるし、80代になってもリスペクトできない人はいくらでもいますから」
するとその人は本音の割合をより高め、こう返してきた。「なんだ、藤原さんはそんなつもりで我々とつき合ってきたんですか」。謝ればよかったのだが、私はすぐさまこう言ってしまった。「いや、私は友人として接してきましたよ。ただ、リスペクトするかどうかは別の話ですからね」
相手が絶句したので私は追い打ちをかけることを言ってしまった。「いや、リスペクトしていないからと言って、軽蔑しているわけではないですよ、もちろん」
すると8人いた場が一瞬静まり、なんだかしらけたムードになった。凹んだ気分の私は家に帰り、その件を妻に話すと「でも、向こうは何も言わなかったんでしょ。ならいいんじゃない。頭に来たら言い返すでしょ。気にしなくていいよ。そんなやつだって思ってるよ、みんな」と解説した。
そう、大したことじゃない。それだけのことだ、と思うのも一瞬、以来、この人物が私の中に居座り、「君はそんなつもりで」と執拗にオーソリティーの「私」を問いつめる。山の中でも日常でも、夢の中でも私の一部となり「長幼の序が大事なんだよ」と言い、私は「いや、それじゃあ、言いたいことも言えないじゃないですか」と抵抗する。
そんな問答が延々と続けられ、きっとある日、そういうことだったのかと私の中の二人は和解するのだろう。でもきっと、長い間、おそらく彼の年齢になるまでこの問答は続きそうだ。
●近著
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)