自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

語る脳と、書く脳の違い

2018年8月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 最近、面白いことに気づいた。自分の脳の中の話だ。

 人は瞬時にいろんなことを考えている。そこに脈絡はない。以前、メキシコの作家で、名作「アモーレス・ペロス(犬の愛)」や「バベル」の脚本を担当したギジェルモ・アリアガがこんな話をしていた。

 彼の作品の面白さは時間の前後など関係なく物語が断片的に描かれる「シャッフル方式」にある。

 例えば「アモーレス・ペロス」の場合、三つの物語で構成されている。闘犬でのし上がる貧しい青年が兄嫁との恋を成就させていく話。安普請ながら新しいマンションで愛人と愛玩犬との新生活を始めたモデルの不幸。さらには左翼闘争の傷を抱え野犬を引き連れて街をさまよう殺し屋の絶望。それら3つの物語が交差点の事故で一瞬にして交わり、3人の運命を変えて行く。

 面白いのは、事故に到るまでとその後の3つの物語が、時間に関係なく断片的に出てくるところだ。パズルの一片をランダムに見せた方が、時間の流れに応じた映像より、見る者の期待と想像をより膨らませる。

 この手法についてアリアガはこう話した。「でも、人間の頭の中って、古い記憶や今のこと、未来への想像がなんの脈絡もなくつながっていくじゃないか。それに従っただけだよ」

 メキシコ文学の代表作と言えるフアン・ルルフォの中編小説「ペドロ・パラモ」もいくつもの話がバラバラに出てくる。その話をさし向けると、アリアガは、「おっ」という顔をして、「そうなんだよ、ルルフォの作品の影響をずいぶん受けている」と正直に語った。映画も文学も、変に、決まりごとにとらわれない自由さが、そこにある。

 新聞原稿の場合、時間を前後させて話を進めるのは「ご法度」で、「わかりにくい」と突き返されるのが落ちだが、私はそれに近い手法をよくエッセーに使う。例えばギリシャで経済危機が起きた場合、新聞の解説記事だと、そこに到るまでの歴史を追った方が、読む側にはわかりやすい。だが、順番にこだわらず、また危機とは直接関わりのない映画の話などを織り込みながら話を進める方が、読む側の想像をより広げることがある。なぜなら、人間の思考、想像は突然、別の時空へと飛んで行くことが多いからだ。

 前置きが長くなったが、要は人間の頭の中はバラバラなものが縦横無尽に飛び交っているということだ。

 私の場合、常に2、3本、多い時は4、5本の原稿のタネが頭の中を錯綜し、トランジスタラジオの配線がごちゃごちゃになったような状態だ。そこに日々人や本、テレビ、新聞、ツイッターなどで見聞きした言葉や歌、プライベートな心配事、週末の山登りにまつわる想像やありもしない空想や不安が流れ星のように突き刺さってくる。

 以前、短期間に全く違う原稿が出ているのを見た老母が、「あんたの頭の中、どんな風になってるんだろうね」と言った。そのとき気づいたのは、原稿の場合、割と整然とテーマ別に引き出しにしまわれている感じがすることだ。つい先刻で言えば、「南アフリカの劇作家、ケレの内面」「角幡唯介の冒険と家族」「昭和天皇はなぜカレーに魚粉をかけたのか」「関川夏央と『坂の上の雲』」といったことが頭の中で常にぐるぐると回っているが、一応は、いびつなファイルに収まっている。そして、それぞれを呼び出した時に、それぞれがぼんやりとした形で出てくる。起承転結や章立てはなく、いくつもの言葉の断片や印象が今にも崩れそうなやぐらのように積み重なっている。

 原稿を書くとは、このやぐらから断片を取り出し、それを皮切りに、新たな、より見てくれの良いやぐらを組み立てていく作業で、一言で言えば「考えを整理する」ことだ。原稿を書くときになって初めて、その題材をめぐって脳を集中させ、「考え」を深めていくのが「書く」行為だ。

 おそらく長年の訓練、習慣で脳がそんな風な手法に落ち着いたのだが、最近、おかしなことに気づいた。

 この6月、80人ほどの大学生を前に3回続けてしゃべる機会が与えられた。「職業、人権、差別」というタイトルの半年の講義のうち、自分は3回だけ話す。「特に準備はしなくていいですよ。1回につき、これまで書いた本の一章分を解説してくれればいいですから」という、担当教授のゆるい依頼に応じたのだが、これが結構、脳の領域を侵した。

 原稿の場合、箱にしまっておけるのだが、語りの場合、脳の中のごちゃごちゃなどお構いなしに、頻繁に割り込んで来ては大きな領域を占める。何かを思考しても、「みなさんの場合、これについては・・・」と常にそこにいる学生に、というか自分の中にいる聞き手に話しかけ、「うーん、この言い方じゃわからないか、じゃあ・・」と一人で問答を繰り返す。それが鬱陶しいので、ファイルボックスにしまおうとするのだが、すぐに顔を出す。

 つまり語りの「やぐら」は書く「やぐら」よりもより幅を利かせ、人の脳の広い領域を占めてくるのだ。

 単に自分が語りに慣れていないからという気もするが、どうなんだろう。そうでもない気もする。語りの場合、推敲ができず、いきなり草稿が最終原稿ということもあるため、より厳しい労力を強いてくるのかもしれない。

 これまで気軽に人前でおしゃべりをしてきたが、「書く」のと「語る」のではこれほど脳の中の作業に違いがあるのかと、最近になって初めて気づいた。その意味はなんなのか。いつかもっと深めてみたい。

 

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