自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

自分の心はラジオの心

2019年7月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 最近読んだ本にこんなくだりがあった。

 <意識には見たものや聞いた言葉が自分の外側からやってくるということを見極める役割がある>。これはフランスの作家、ピエール・パシェという人が2007年に書いた「母の前で」というエッセーの翻訳である。パシェは1937年に生まれ、2016年に亡くなっている。この作品は認知症で息子のこともよくわからなくなった母親をつぶさに観察し、あれこれと考えを深めたものだが、最初の章「内なるラジオ」の一文に私は引き込まれた。

 作家は時々母親に電話を入れる。すると、母親は型通りの挨拶のあと「いま面白いラジオを聞いていたの」と話し出す。ところが、そこで語られるのは母親の学生時代や結婚間もないころのエピソードである。つまり、母親は自分の中にある記憶、思い出を、まるでラジオで誰かが話していると錯覚しているのだ。

 私が引用したのはそれについての作家の考察だ。最初の一文で言おうとしているのは、人は実際に見聞きしたものと、自分の中で考えたものをきちっと分類する。それが意識の一つの役割だと作家は言った上で、こう続ける。

 <意識はそうしたものを糧に前を向き、自分を餌食にしながら堂々巡りをすることを避ける>

 この人の言葉は難しいので、ここでは噛み砕きながら先に進みたい。

 意識は、自分の中でぐるぐると考えを巡らせるのを避けるため、「見聞きした事」を取り込みながら「前に進む」と言いたいようだ。

 そして、夢の話になる。

 <夢もそうだ。意識は、まるで外から押し付けられたような知識でもって、夢というものが心的活動のなかからくるもので、夢そのものがそうした活動の一部だということを知りながら、夢を、自らの注意力の中心点から離れたところで、やや周辺的な地帯でできるものとして受け止める>

 簡単に言えば、夢は自分の中から湧いてくるものだとわかっているのに、人はそれがまるで「夢魔」のように外からやってくるものとして受け止めるということ。

 

 段落はこう締めくくられる。

 <夢は、意識の外から意識に到達するもので、意識が、それが自ら創りだしたものであるということを認めるためには、ちょっと想像力を働かせることが必要だ>

 作家は、母親が自らの心の声をラジオが語っていると受け止めていたことをヒントに、夢をまるで外側からやってきたと思ってしまう人々の習性に思い至る。

 夢は自分自身が創りだしたものだ。意識できない領域も含めた自分の脳内の記憶やそのネットワークがあれこれと脚色して何らかの映像や物語を作り出す。それが夢だと私は思う。

 テーマは不安であったり悔恨であったり、大いなる喜びといろいろだが、全ては自分が創りだしたものだ。

 それは自分の手柄でもあり、同時に自分の責任でもある。でも、どうして太古から現在まで、人は夢が外から来るものだと思いたがるのだろう。

 私がこの引用に引かれたのは、そんな問いを自分の中に抱えてきたためだ。

 コロンビアの先住民、ワユ族をはじめ夢占いは世界各地にある。人が夢の不思議に魅せられ、何かのお告げだと考えるのは、彼らが単に前近代的だからということではない気がする。それは何か困ったことに直面したときに、人が生きていく上での一つの知恵でもあるだろうし、また単にその方が人生が面白いという面もあるのではないかと思う。

 これは夢の話だけではない。勇気、元気などについても言えるのではないだろうか。

 長らく私たちは勇気が湧いてくる、元気が出る、という言い方をしてきた。しかし、ここ10年ほど「元気をもらう」という表現をよく耳にするようになった。5月の連休中の天皇の交代をめぐるテレビ報道でも、マイクを向けられた人々の口から「ああ、ほんと、元気をもらいました」という声を何度も聞かされ、私は半ばうんざりした。

 この言い方は前から知ってはいた。イタリア生まれの日本文化史研究家、パオロ・マッツァリーノ氏によると、メディアで最初に使われたのは1986年の「フライデー」で、「三越の女帝」と騒がれた女性が、若い人から元気をもらうため、カフェバーに通っているという表現があった。89年ごろから使用例が増え、ファション誌に「パリが私に元気をくれる」といった企画が現れるようになる。

 ただし、一般の人がごくごく当たり前のように使うのはどうも2000年代以降のようだ。

 「大丈夫です」「ガチで」「真逆」「上から目線」など、自分では使わないが、耳にするのはまあ許せる程度の新語はいくらでもある。なのに、この「元気をもらいました」だけは、どうにも耳慣れず、いやな感じが残るのはなぜなのか。

 そんなことを考え、それを記事にしようと思っていたからなのか、先の引用に強く引き込まれた。

 夢は本来、自分の中から湧いてくる。なのにそれが外から来るものだと思ってしまう錯覚が人にはある。

 それにはいろいろな要因があるが、一つには、お告げがほしいと、いつも何かを待っている姿勢があるように私には思える。ある日、救いの神がどこか外からやってくるという期待だ。そういえば最近は「神ってる」など神という言葉もよく使われる。

 仮にそれが正しいとすれば、「元気をもらう」「勇気をもらう」の中にも同じような心の動きがあるのではないだろうか。

 お告げを待つ心。他力の心。

 自分ではどうにもならない。なんとかこの苦境から抜け出したい。そのためにはひたすら外からの声を待つしかない。そんな心理が「もらう」の中に隠れているのではないか。

 扉はいつ開くんだ!

 と、みんな待っている。そんな風に思ったのだが、どうだろう。

 

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