2013年12月号掲載
「あんまり、こうマッチョにしないでねっていうか、こう、わかるだろ? マッチョっぽくされちゃうと、どうもさあ・・・」
アフリカを舞台にした2005年の私の本、『絵はがきにされた少年』(集英社文庫)はこういう書き出しで始まる。2001年9月の米同時多発テロに突き動かされて書き始め、4カ月で草稿を書き上げ、4年後にようやく出版されたものだ。
書き出しのセリフは南アフリカのカメラマン、ジョアン・シルバがヨハネスブルクの小さな自宅で私に語った言葉だ。戦場の話、戦場カメラマンの話をあまり正義感ぶった意味を持たせたり、ドラマチックに、大仰に盛り立てないでくれ、という彼の宣言だったが、私自身の思いが重なっている。
戦場に通い続ける動機について、彼は大それたことを何も語らなかった。私も当時、戦場に行っていたので、下手に意味づけしたくないのはわかったが、言葉がほしくてしつこく聞くと、彼は最後にこう言った。
「戦場では人間の混乱、人間の本来の姿が見られる、ただそれだけ。それを見てしまうと、他のことが何もかも退屈になる。日々こうして生きてるのも退屈に」
照れではない。あらゆるものを見たり経験してしまった者はこんなふうなニヒリズムに陥る。人間にはそんな習性があるのではないだろうか。彼は結局、その数年後、アフガニスタンで地雷を踏み抜き、下半身を吹き飛ばされた。一命を取り留めたが、もう戦場には行けない身となってしまった。
「本当に戦争を書き切れれば、戦争は終わる」。開高健は生前、新聞記者とのインタビューでそう語っている。戦争が終わらないのは、報道陣であれ作家であれ、人間には本来、それを書き切ることができないという特性があるのではないか、と。
ベトナム戦争での自分の無力さに触れ、作家はこう話した。
<もし戦場というものが(ママ)伝えることができるならば、戦争はとっくに終わっていて、二度と新しい戦争は起こらなかったはずだと思いたいんですけれども、何かしら人間の能力を超えたものがあって伝えることができないでいる。そのために、いつまでも戦争は起こり続けるということは言えると思います>(『ごぞんじ開高健』NPO法人、開高健記念会、2006年12月発行、P210)
戦争を書き切ったとして、本当に戦争は終わるだろうか。そんな疑問はある。だが、「書き切る」ことすなわち、戦争を読む者、ひいては、いま生きている人類全てに伝えることだとみなせば、納得できそうだ。戦場を報じた者が厭戦的になるように、もういい加減にこんなことはやめてくれ、どんな理由があろうと、こんな理不尽な暴力は正当化できない、もうたくさんだという思いに、誰もが至るはずだ。戦場に身を置いたときのように。
マッチョに勇ましく戦争を語ったり、その伝え手、カメラマンやライターが戦死するという当たり前のことが大きく騒がれるいまの日本は、戦争を伝えきるよりも、はるか手前にいる。マッチョな語りは武勇伝となり、それはときに人を戦争へと引きつけ、戦争を人間の性(さが)をのぞき込むような何か底知れぬ魅力に満ちた世界だと思わせる、ところがまだ残っている。
自分には何もできない。何一つ伝えられない。仮に伝えようとしても何も変えられない。前線に立たされる少年一人も救えないし、自分が暴動に巻き込まれればパニックに近い状態に陥る。そんな無力感がうつ状態をもたらし、その底から這い上がれない気分にさせるのが戦場だ。
普段の生活に戻り、一見、そこから脱け出したように思えても、そのときの恐怖やうつ的気分が何の脈絡もなくぶり返してくる。
そして黙り込む。問題は黙り込んだ次に何があるのか、ということだ。
戦争は差別と似ている。誰かのかけ声や理論、主義、あるいは宗教が人間の考えを改めさせ、消えるということはない。政治的な動きだけでは改まらない。最後は、個人個人が何かを体験するか、洞察力を使いひたすら考え抜くことで、その非道さ、無意味さに気づき、自分の中で拒絶していくしかないのではないだろうか。
2001年当時、そんな思いに至りアフリカから戻ってきた私は、戦争をとらえるのではなく、まして、そこにいる自分自身を書くのではなく、そこにただ淡々と生きている個人を、主に年老いたアフリカの老人の半生を書いた。個人がその人生の中で、どう生き、どう変わるかを捉えようとした。
この項「戦場報道のマッチョとうつ」の1回目で取り上げた梶原一騎氏は70年代、戦場カメラマンをマッチョふうに描き、その対局に「戦争を知らない子供たち」を置いた。「気楽なものだ」と日本の「一国平和主義」を厳しく批判した。
だが、この夏、久しぶりに聞いたその歌は私には妙なほど心地よかった。イントロも、杉田二郎の歌声も軽やかでリズミカルで、まさにマッチョの対極にある、気が抜けるような音だった。
以前は毛嫌いしていたのに、なぜ心地よく響いたのか。「帰ってきたヨッパライ」に通じる、開き直った者が胡坐をかいているようなひょうひょうとした70年前後のあの雰囲気が、ただただ好ましかったのは、私が実際に戦場を経験したからだろう。
それでいいんだ。重々しく語るな。そうやって軽々と歌い流せばいいんだ。そんなふうに思ったのだ。
(この項おわり)
●近著紹介
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)
心に貼りつく差別の「種」は、
いつ、どこで生まれるのか。
死にかけた人は差別しないのか──?
新聞社の特派員としてアフリカ、ヨーロッパ、南米を渡り歩いてきた著者は、差別を乗り越えるために、自身の過去の体験を見つめ、差別とどう関わってきたか振り返ることの重要性を訴える。
本書では、コロナ禍の時期に大学で行われた人気講義をもとに、差別の問題を考え続けるヒントを提示。世界を旅して掘り下げる、新しい差別論。