自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

年寄りの冷や水というけれど

2023年4月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 久しぶりにお会いしたバイオリニスト、黒沼ユリ子さんに「おいくつになった?」と聞かれ、「61です」と答えたら、「わっかいわねえ」と声を上げた。80代から見れば61は若いのだろう。頭ではわかる。だがその感覚はわからない。

 小説教室の名物講師、根本昌夫さん(69)がこう言っていた。「死についてはある程度想像できても、老いを書くのは難しい」。小説を書く際、主人公を作者よりもかなり年長の人にすると多くは失敗するということだ。例えば40の人が60の人のずいぶんと老いさらばえた心境を書く傾向があるが、そこにはリアリティーがない。小説は全体が嘘でも細部が本当でなければ成り立たない。読んでいる側は、ああ、作者が勝手に作っていると嘘を見抜き、それ以上読む気がしなくなるからだ。40歳の読者は素通りしても、60を超えた人は瞬時でその嘘がわかる。自分が経験していない老いを書くのは容易ではないということだ。

 根本さんの弟子の小説家、佐々木愛さんに『プルースト効果の実験と結果』という短編があり、こんな言葉が印象に残った。

 中年の女性司書が高校3年の二人に語りかけるセリフだ。

 「二人がわたしをとても年上だと感じているように、先のことは遠くに見えるだろうけど、わたしが二人のことを、まるで自分を見ているみたいに親しく感じるように 、過ぎたことは、いつでもすぐ近くに感じるのよ」 若い人から見ると、10年、20年先は遠い未来だが、老いた者が振り返る10年、20年前はついこの前のことだ。

 その感じ方も年齢で違う。例えば、20から見た40ははるか彼方だが、40が見る60ははるかとは言えない彼方だろう。そして60が見る80は彼方とは言えず、ほどなくやってくる近未来くらいだろう。つまり、同じ20年先でも、年齢を重ねることで、老いのわからなさは薄まっていく。20歳の人にとって20年先は自分の生きた年数分だが、60にとっては生きた3分の1に過ぎず、同じ20年でも軽くなる。

 25歳で住友金属鉱山に就職し、鹿児島北部の金鉱山にいたころ、私の減らず口を面白がってくれるMさんという56歳の人がいた。若手指導に当たるたたき上げの人だった 。あるとき男ばかりで下ネタの話になり、私が真顔で「えっ、Mさん、まだそんな (性的な)こと、できるんですか?」と聞いたら、穏やかなMさんが激昂した。「 なに言うとるんや、殺すぞ」。その剣幕に気圧された私を脇に引っ張り、先輩が耳打ちした。「年寄りだって、男は男や。そんなこと言ったらいけないっちゃ」

 年配者に対する私の無理解から来たものだった。すぐに平謝りしたが、長く記憶に残ったのは、Mさんの怒りと自責の念だけではなく、56歳になっても性的なこだわりがあることへの驚きからだった。

   若いということは、それほど無知なのだ。「年取ったらわかるよ」とはよく聞く言葉だが、若い書き手が「もう俺の役目は終わった、あとは孫の面倒でも見て余生を送るよ」と妙に達観した60男を描く小説と同じである 。

 では、逆はどうだろう。年長者が若いころを振り返ることに支障はないのか。「過ぎたことは、いつでもすぐ近くに感じる」と佐々木愛さんが書いたように、20代のころはついこの前のことに思える。それを思い出すだけならいいが、行動に出ると問題が生じる。この2月23日から1週間、私は4つ後輩の米山悟君と岐阜、福井県境の越美山地を縦走した。1400m前後の低山だが、豪雪地帯でテントを持たず、毎晩、イグルー、いわゆる自作のかまくらに泊まり、スキーとアイゼンで歩き続けた。

 スキーといっても、滑走面にシールと呼ばれる滑り止めをつけ、ひたすら稜線を上 (のぼ)り下(くだ)りするというもので、誘われた私はかなり安易に考えていた。冬から春に変わるこの時期は雪が悪い。表面がバリバリで中がシャーベット状のモナカ雪から新雪カリカリのアイスバーンまで多種多様で、午後になると雪がとけだし、シールにべったりと雪がつき重くて歩くのが苦しくなる。

 雪と格闘する1週間ものスキー山行は学生時代にはよくしたが、考えてみたら、その後、私は全くしてこなかった。せいぜい2、3日である。

 入山から4日目、氷結した細い稜線を登っていたとき、左右のスキーが同時に下へと滑り出し、一気に滑落した。5m落ちたところで細い木をつかみどうにか止まったが、運良く、左足のスキーが直径8㎝ほどの木に着地したためだった。

 考えてみたら、体重60kgとリュックの20kgの計80kgを両手で支えられるものではない。たまたま左足が木に着地したから助かったのだ。そのまま落ちたら200mは滑落し 、頭を木に激突するか、雪崩に巻き込まれていただろう。またも、歩きながらいつも祈っている観世音菩薩に救われたかたちだ。その後もどうにか歩き通したが、下山と同時に左足首が痛みだした。着地の衝撃で軽い捻挫をしたようで、下山から1週間が過ぎるのにいまだに痛い。そして、久しぶりの重荷が効いたのか、両腕がひどく痺れ、その痛みで目が覚める。鍼の先生に診てもらったら、積年の首の痛みに加え、急激な重荷による腕の圧迫が原因だという。

 1週間の重荷山行などついこの前、若いころいくらでもやったこと。そんな安易な考えがもたらした痛みだった。年寄りの冷や水である。これを機に少しは自重しよう。ようやくそう思い始めている。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)