自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

偶然みつけた、死についての言葉

2023年3月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 作家の赤瀬川原平さんに『世の中は偶然に満ちている』(筑摩書房)という本がある。2014年に亡くなったあと、妻の尚子さんが、赤瀬川さんが書き残した「偶然日記」をもとにまとめたものだ。日記にはその日みた夢と、日々出くわすちょっとした偶然がつづられている。例えばある人の話をしていたら、同じ日に駅でその人に出くわすとか、深夜、慌てて喫茶店「マイアミ」に入ったあと家に帰ると「マイアミ」と名乗る会社から郵便物が届いていたなど、割と他愛のないものだ。

 私もこの正月、えっと思うことがあった。 1月20日の金曜から『毎日新聞』の夕刊で始めた連載「イマジン チリの息子と考えた」という企画の原稿を書いていたとき、批評家の吉本隆明さんの言葉を使った。事故で腕をなくした読者が訪ねてきて、その意味を問われたとき、何も答えられなかったという話だ。2007年6月に駒込のご自宅でインタビューしたときに聞いた話だ。

 そのときの文字起こしを読んでいたら、私はずいぶん死について聞いている。話題にしたのも、吉本さんの本『新 死の位相学』だった。久しぶりにその本を取り出し、付箋をはったところに目を通したら、大事な話がそこにあった。

 私は2年ほど前から差別に関する本の原稿を書いてきた。中央大学法学部で続けた講義をまとめたもので、タイトルはまだ決まっていないが、第1章に据えた私の仮説というか直感から、「死にかけた人は差別しなくなる」にしようかと思っている。

 原稿ではその理由をいろいろ書いているのだが、論を補強するため、別の事例を加えるつもりでいた。そんな折も折、吉本さんの本を読み直す偶然が幸いし、彼が溺れ死にそうになった体験など、参考になる文章をいくつも見いだした。

 吉本さんが溺れて意識を失くした末、一命をとりとめたのは1996年夏、西伊豆の海岸だった。そのときの入院メモにこう書いてある。「漱石修善寺の大患のことにふれて、じぶんはこの世間を全部敵のようにみなす嶮しい気持で生活してきたが、世間はじぶんが考えるほど嶮しくも、敵対的でもなく、善意な温いところかも知れないと思いなおしたといった意味のことを述べている。この偉大な文学者を連想に連れ出すのはおこがましいが、「伊豆」ということから修善寺がうかんだので、敢えて言わしてもらうと、わたしも今度の溺体の体験で、肉親、近親から知人、未知の読者の反応の感じから、おなじことを言いたい気持がしないではない。」

 だが、吉本さんはそう言い切らず、まだ少し揺れていた。

 「しかしそう言ってしまえば、世間というのはひどいもんだと、身を固くして抗ってきた度々の、あまりひとには言えないじぶんの敵対感に済まない気がする。だから言わないことにする。だがこれを言わないとひどく心が痛むことも確かだ。(善意、悪意の表出された雰囲気には幾段階がある)。無償ということの重要さ。」(すべて原文のまま)

 本論に入ると、吉本さんはフランスの哲学者、モーリス・ブランショの本『文学空間』などを引用しながら、瀕死と死の意味を探っていく。「内在」という言葉が使われているのでわかりづらいが、私にヒットしたのは以下のくだりだ。

 「もしあらゆる共同性(略)の原理が、人間の欲求の平等さを実現することだとすれば、「完全無欠な社会」が想定されるのではなく、人間がじぶん自身によってしか産出されないという「内在」(略)人間を絶対的な内在にする原理である」

 そのものに備わっているという意味の「内在」を省いて私なりに解き直すと、こういうことだ。理想の社会とは、ルールや考えなど外から与えられるものではなく、一人ひとりの頭の中で作られるものだ。

 間違っているかもしれないが、それに続く吉本さんの難解なブランショ解釈を私なりに書き直すとこうなる。

 他人や社会から完全に独立した個人が、自分自身が必ず死ぬということを知識としてではなく、自分の内面から湧き上がることで、つかみ切れば、その人は初めて「平等性を実現する存在」になる。

 当たり前の話じゃないかと思う人もいるだろう。人はみな死ぬ。誰もが知っている。その点ではみな平等である。が、ここで大事なのは吉本さんの言う「平等性を実現する存在」という言葉だ。

 これは、平等に死ぬという意味ではなく、ブランショが触れている「人間の欲求の平等さ」を実現させるという意味である。お題目を唱えてもダメだ。一人ひとりが自分が死ぬということをつかみ切った上で、初めてその人は平等さを推し進めることができる。そう私は受け止めた。

 「死にかけた人は差別しなくなる」という私の直感に通じる話だと思った。

 この正月、吉本さんのこの本を再読したのは一つの偶然だ。でも、私が死と差別について考え始めたのは2000年代、そのころ話を聞いた吉本さんから、直接、同じ考えを聞いたわけではないが、彼の体験、著書に当時引き込まれた私は、私なりにすでにその直感があったのだろうか。

 あるいは、当時、瀕死体験について考え込んでいた私は、自分の考えについて吉本さんに太鼓判を押してもらいたかったのかもしれない。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)