自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

赤瀬川さんの文体(その4)

2014年9月号掲載

毎日新聞地方部編集委員藤原章生(当時)

 

 赤瀬川原平さんは、あえて饒舌にというより、自分の思考の流れを淡々とそのまま書いている。つまり、「昭和軽薄体」という80年代に広がった文体とは一線を画している、と私は思う。

 大事なのは赤瀬川さんの脳の動きなのだ。これが普通と違う。本人はごく自然に4Bの鉛筆を原稿用紙に走らせているだけだが、所々、おかしみ、えっと思わせる発想が出てくる。「ここ笑えますね」と編集者や知人に言われ、本人が「そんなものか」と学習し、コツをつかむことはあっただろう。だが、特段の意図もなく書いているのがその特徴と言える。

 1974年に赤瀬川さんの編集者だった作家の関川夏央さんはこう振り返る。

 「あの人は第一に全然気負わない。何か書いてやろうという態度じゃない。あと、細かなことや人のことを覚えない。興味がないことは鮮やかなくらい、覚えない。なんでもかんでも覚えちゃえば、オタクだからね。ゆったりとのんびりしているのは、日常生活であまり物を覚えないから、細かなことに患わされないんだろうね」

 気負わないのは、どんな点に表れるかと言えば、「あの人、15歳まで寝小便してたってよく書いてるけど、そこまで正直に書くかなと、ちょっとびっくりした。15なら書かないんじゃないかな。10歳が限度じゃないかね。六畳二間の狭い家に9人家族というストレスが強かったんじゃないかな。神経過敏だから、相当疲れたんじゃないかな」

 関川さんはあるとき、「赤瀬川さんはある種の天才だ」と思った。「ずいぶん前に開かれた赤瀬川原平展に行ったとき、彼の高校のときの油絵を見たんだけど、すごいんだ。暗い感じの自画像なんだけど、細密なタッチが、常人じゃない感じなんだ、そのこだわりが」

 普通でないのは確かだと私も思う。赤瀬川さんの特徴の一つは自意識の過剰さで、それが思考、文章に強く影響している。人は気にも留めていないのに、異常に他人の目を気にし、一人で悶絶している所が、読む者を笑わせる。

 前回引用した、初期の短編「穴と刃物」は競馬場のルポだが、語り手の「私」は一貫して、そこにいる自分が周囲から浮いていることを気にしている。

 <私はなるべく目立たないように、自分も刃物のふりをした>。ここでいう刃物とは「馬券を買いにくるギラギラした客たち」を指している。

 <目を濁らせて、口をダラリと開けたり、背中を丸くしたり><(皆、食べ物のカスや煙草を)地面にポイポイ捨てている。わざと地面の真中にポイと捨てている。環境がどんどん汚染されている(略)しかしそんなことを考えただけでも、私は何かがバレるような超能力を感じて、私もわざと汚すように地面を踏んづけた。ポケットに手を突っ込んで領収書か何かいらない紙屑を探し出し、それを地面にポイと捨てた>

 競馬場に見学に来ているわけだから、別に観客に同化する必要はないのだが、必死に目立たないようにしている。馬券を手に観覧席に座ると、<風で飛んだ馬券が背中についた。ふざけるんじゃねェと思った。そんな風に思うことで、なんとか水準的になればいいと>

 家族によると、赤瀬川さんは決して声を荒げたりはしないのだが、常に周囲の目を気にしているからこそ、こんな物言いになる。競馬は結局、本命の馬が勝ったが、その時も、<散らばりかけていた観覧席からは軽蔑するような失笑がフワッと起きた。配当金が小さくて勝負にもならない、ということらしい。私の買った13は数字の列の一番最後に並ばされて可哀相だ。私も慌てて失笑した。だけどもうそれは一拍遅れで、みんな笑い終わったあとなので、キマリが悪かった>

 彼が遅れて失笑した事など誰も気づいていないのに、一人でキマリ悪くなっている。周りに同調しなくてはならないという思いは、物心ついてからこの方、協調性がなく集団について行けない自分を不甲斐なく思っていたからだろう。

 赤瀬川さんは60歳をすぎて講演が出来るようになったが、それまでは聴衆の視線が怖くて緊張し、人前で話す事ができなかった。

 彼の中には「ダメな自分」を監視する、もう一人の彼がいるように私には思える。もう一人の彼が「ちょっと普通じゃない、集団とは違う彼」をすぐに見つけ出し、「またおかしな事をやっている」と茶々を入れるわけだ。

 90年発表の「裏道」という小説にこんなくだりがある。近所に子犬が捨てられていた。語り手は犬が怖いので、飼いたくはないが、妻のN子が飼いたそうにして、いつまでも見ている場面だ。<N子は段ボール箱を離れて歩いてきた。私はもう先を歩きはじめている。少々しかめっつらしい顔をして、/「早くしないと遅れるぞ」/なんて言っている。/自分の発言を「なんて言っている」とはおかしいか。私ではなく、仮に克彦としよう。/克彦は少々しかめっつらしい顔をして、/「早くしないと遅れるぞ」/なんて言っている。>

 ここで言う「克彦」が日常の赤瀬川さんで、「私」はその監視役であり、文学をする人間だ。小説はしばらく「克彦」で進むものの、少し進むと<いま気がついたが、いつの間にか克彦がまた私に戻っている。やはりこれでいいことにしよう>と、再び主語が変わる。

 誰しも自分の中にいくつかの人格を抱えているはずだ。赤瀬川さんが面白いのは、人格同士のやりとりや出入り、分裂、合体を逐一正直に書いているところにある。

=この項おわり

 

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