2022年9月号掲載
しばらくぶりに海外から戻ると、日本、特に私が暮らす東京には独特のムード、雰囲気があることに気づく。空から見た日本はとにかく緑が多い。アメリカのロサンゼルスなど砂漠に切り開いた街から戻ると、田んぼや森、山を覆う日本の緑は眩しいくらいだ。日本海を渡ってくる風のおかげで、起伏のある島国のおかげで、こんなにも贅沢な自然が残されている。そう感じながら、いざ降り立ち、電車やバスで都心へと向かうと、もう気づいている。あ、やはり、ここは独特だと。
以前、英国の日系作家、カズオ・イシグロさんが座談でこんな話をしていた。
赤ん坊のころまで過ごした日本は父母の故郷であり、長いこと特別な思いでこの国を眺めていた。最初の小説を出したころ、大人になって初めて日本に来たとき、「ああ、ようやく、自分の母国に来たんだ」とずいぶん興奮した。でも、空港の外に出て、タクシーに乗ろうとしたら、自動ドアがバンと開いた。その瞬間、「あ、ここは僕の国じゃない。ここは違う」と気づいたーー。
なぜそう思ったのかをイシグロさんは詳しく語らなかったが、タクシーのドアにとにかく驚いたようだ。自分の国、イギリスにはない、明らかに別世界の文化だと感じたのだろう。イギリスでは自分でドアを開けるか、誰かが開けてくれる。そうすれば、そのときに少なからず会話が生まれる。でも、日本ではおもむろにドアが開き、乗ると同時に勝手に閉まる。中には愛想のいい運転手もいるが、大概は前を向いたままだ。
数年前よく聞いたのは、日本のトイレの話だ。「トイレに入るとパッと蓋が開くんでびっくりした。監視カメラで誰か見ているのかと思った」
要は彼らにはとても思いつかない、行き過ぎとも思えるサービスに驚いていたのだ。 イシグロさんは感受性が強いのだろう。自動ドアという一つの発明に驚いたというより、それを考え出した人の気持ち、心が読めてしまったのではないだろうか。だから、一瞬にして、「ここは僕のいる世界とは違う」と気づいた。
客の手をわずらわせない。運転手との交流もできるだけ省く。時間の節約。便利さの追求。
私の場合、日本で育ち、長く暮らしてきたので、そんなことに驚きはしない。でも、数カ月ぶりに帰ってみて、すぐさま東京の独特の雰囲気に気づいた。
コロナがらみの検疫や入国審査の機敏さ、無駄口のなさは当然としても、例えば、成田から日暮里まで乗るため、京成スカイライナーのチケットを買おうとしたら、受付の女性が見習いなのか、ずいぶんと緊張していた。後ろのベテランに見守られながら、必死にチケットの機械をいじっている。便を間違えて発券してしまうと、ひたすら恐縮して私と。彼女の後ろで見ている上司に「すみませんでした」と何度も謝る。
「大丈夫、平気ですよ。ゆっくりゆっくり」と声をかけても、彼女は全身を張り詰め任務に当たっている。彼女の気持ちがこちらにも伝わり、私も肩が少し上がってくる。 電車のホームにも車両にもチリ一つ落ちておらず、大声で話している人も、スマートホンで音楽を鳴らしている人もいない。山手線に乗れば、すでに帰宅時間だろうが、人々は背筋をのばしてスマホに向かうか、俯きながら静かに寝ている。
私はひとり一人の顔を覗き込んでみた。普段なら感じもしないし、私もその中の一人にすぎないのに、そのときはこう思った。
みんな締めつけられている。何かに抑えられている。その何かとはなんなのか。他人の視線? 世の中にある見えない圧力? 何かおかしなことをすれば、「そんなんじゃ通用しないぞ!」と誰かから罵倒されそうな雰囲気。私は以前、路上に車をとめて荷物を下ろしていたら、後ろの車にしつこいくらいクラクションを鳴らされ、「少し待って。それかあっちの道に行ったら」 と言うと、30代くらいのチンピラ風の男が激昂し「お前、そんなのは通用しねえぞ」と怒鳴った。「そんなんでいちいち怒るなよ」と言ったら、110番通報し、警察が出てくる騒ぎになった。ほんの1、2分なのに、なぜ待てないのだろう。この余裕のなさはなんだろうと思ったが、人に聞いてみると、普通、私のようなことはしないらしい。
軽い被害妄想のけのある私だけなのかもしれないが、誰かに叱られそうな感じ、イライラされそうな感じが東京の街を覆っている。
歩道で一人ぼーっとして立ちすくんだり、行列のできた銀行の窓口で長々と職員に自分の事情を説明しているような人が南米や米国にはよくいる。待っている人たちはそれを笑って見ている。顔に緊張はなく、緩んでいる。東京にももちろん、そんな人がいるかもしれないが、集団でそれを許さないムードがある。ただ歩くだけでも、人は前だけでなく、後ろまで気に留めなくてはならない。
他人に迷惑をかけてはいけない。この考えは大事だが、迷惑をかけてもいいのだ。迷惑が人と人との関係をつくる場合もある。でも、それが極まると迷惑をかけないため、常に張り詰めていなくてはならない。
こんなに狭い大都市に人が密集している以上、できる限り人との距離をとり、うまく人をかわすのは一つの知恵であり、それは街の利点でもある。
30代のころまでは、久しぶりに帰国すると馴染むのに時間がかかったが、今は数日ですぐに東京人に戻れる。すると、東京気質が後押しするのか、真っ白だった予定表を次第に埋めている自分がいる。現役時代より仕事を減らしている私でさえ、深く考えもせず、雑事を増やしていく。こんな用事が必要なのか、本当にこの人に会いたいのかと問い詰めもせず。
時計を持つことも、スケジュールを決める必要もないのに、この街にいると気がせいてくる。朝日も夕日も見ないからだろうか。自分の狭い空間に収まり、人との距離ばかりを計って生きていれば、時間を細かく切り刻み、時間の細切れを何かで染めなくてはならない。そう思ってしまうのだろうか。
良い悪いという話ではない。空間と時間がゆったりしているからといって、良い作品が生まれるとは限らない。もしかしたら、人を圧迫する街だからこそ、新たなものが出てくるのかもしれない。いずれにせよ、東京の雰囲気は世界でもかなり独特だ。
●近著
『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)