自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

トレーニングとしてのデモ

2012年8月号掲載

毎日新聞夕刊編集部記者/藤原章生(当時)

 

 主催者の発表では首相官邸前のデモに(2012年)6月末以来、15万人もの人が集まり盛り上がりを見せている。福井県大飯原発を7月1日に再稼働させた野田佳彦政権に反発した動きだ。

 私は取材で7月1日に「素人の乱」というグループが主催する東京・新宿のデモ行進に参加した。そのとき、主催者発表では8,000人だったが、あいにくの雨で、ざっと数えたところ、行列にいたのはせいぜい2,000人というところだった。

 参加者は美少女グループからグリーン政治家、知識人までごちゃ混ぜで、特段の指導者はいなかった。

 そのとき話を聞いた参加者たちと同じように、私は、日本でもこんなふうな普通のデモがあってもいいなと思った。たとえ少数であっても、「再稼働反対」という自分たちの意見を集団で訴えるのはごく正常な社会の姿だと思うからだ。

 新宿に比べると官邸前の方が、はるかに規模は大きいが、この数が20万人以下に留まっている限り、国の政策を変えるまでの大きな勢力にはならないだろう。

 ただし、その数がそれ以上、たとえば50万人に達し、何日間にもわたって官邸を、あるいは、議決が予定される国会を包囲し、議員たちの登院を阻む戦略的な動きをとれば、話はかなり違ってくる。だが、おそらくそうはならないと私はみている。

 ギリシャ、イタリアにいたせいか、私はデモに幻想を抱いていない。市民が意見を表明する点でデモは絶対に必要だし、有効な手段だと思うからこそ参加もするが、それがすぐさま政治を動かす、政策を変える力にはなりづらい。

 十万人規模のデモはギリシャやイタリアで何度も目にしてきたが、それが政策に影響を与えることはなかった。ギリシャ人にとって「デモは文化」であり、私がいた2008年春以降、「オリンピック航空のリストラ反対」から「緊縮策反対」まであらゆるタイプのデモがアテネの中心街で行われ、業を煮やした若者たちが暴れだすのが常だった。  そしてその映像が世界に流れ、「経済危機で国が破産しそうなときに、暴動など起こして、どういうつもりだ」という疑問とともに、悪いイメージを植えつける結果になった。毎回逮捕者が数十人、警官を含めたけが人が数十人という規模だったが、2010年5月のデモでは暴徒が銀行に火炎瓶を投げ入れビルが炎上し、3人の行員が死亡している。

 それでも、ギリシャ政治にはすり傷一つ与えられなかった。イタリアでもやはり、ある一定数を超えると暴力に走るグループが放火などをして、一時的に派手な映像をニュースに提供したが、国民投票のように法を廃止したり、政策を変える結果にはつながらなかった。百歩譲って影響があったとすれば、庶民生活をより厳しくする政策を始める際、政権与党に多少の躊躇を与えたかもしれないということだ。だが、それにしてもわずかな程度だ。

 一つには、暴力派が出没するため、参加者は瞬間的に最大で20万人程度とどまり、それ以上数が増えなかったのが大きい。これが30万以上となれば、一国の首都の警察では対応できなくなり、暴力にならずとも、じわじわと議事堂を取り囲めば、議会を止める阻止行動を起こすことができたかもしれない。だが、核となる活動家たちと、それを支援する人々、組合など動員力のある組織を入れても20万人が限界だった。

 自然発生的に盛り上がる日本の官邸前デモはどうなるのだろう。

 官邸は首相が出入りする場所であり、国会議決とは直接関係ない。だから法案可決などを阻むという直接行動にはつながらない。

 むしろ、大多数が「再稼働反対」を唱え続けることで首相に精神的ダメージを与えることがあるかも知れないが、いくら日本の政治家とは言え、そこまで柔(やわ)にはできていないだろう。

 では、仮に数が増え暴力沙汰になった場合、どうなるか。停止線に陣取る機動隊とデモ隊との衝突、催涙弾、放水車で蹴散らされるというパターンか、あまりの数の多さにデモ隊が将棋倒しとなりけが人、または死者が出るということも予想される。だがそれで首相が責任をとって辞任したり、政策を変えるということにはならないだろう。

 ギリシャのように警察が発砲し少年が死亡するようなことがあれば話は別だが、日本では考えにくい。せいぜいが催涙弾どまりだろう。

 つまり、ある程度の暴力沙汰になっても、すぐに政策を左右するには至らない。

 ただし、その場合、メディアがいま以上にデモを大きく取り上げるようになり、新たなデモの吸引力になることはある。ただし、それで30万、40万と増えていくとは思えない。やはり20万以下で同じ形のデモが続くだけのような気がする。

 では、デモは意味がないのかと言えば、決してそんなことはない。一つの要求の下、それだけの数の人が東京の一カ所に集まる経験は60年安保のころからこの方ないのだから、その事実の意味は大きい。仮に、より不人気の政策を国が決めるような場合、状況次第ではその数はさらに増えることもあり得るからだ。

 そのトレーニングの場として、いま起きている官邸前の集結には大きな意義がある。  

 

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