自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

「脳内風化」について

2014年3月号掲載

毎日新聞郡山通信部長/藤原章生(当時)

 

 私が暮らす福島県郡山市の人々は、原発の話をほとんどしない。こちらが聞けば、「困ったもんだね」「汚染水、どうなるのかね」といった返事をするし、役所関係や、商工会議所、青年会議所などの集まりでは、「復興」や「風評被害を払拭」といったスローガンめいた言葉が踊ることはよくある。だが、日常会話の中で、原発事故の話はもはやほとんど出てこない。NHKがニュースで、放射能を心配する母親たちの話を特集したりするが、実際、若い母親たちに聞いても、話題は「おむつ離れ」や「保育所の順番待ち」の話が主で、放射線のことが話題になることはまずない。

 それは単に、私の周辺にいる人たちの話にすぎないのではないか。自分の周りの話を一般化しているだけでは、という意見もあるだろう。

 それでも仕事がら私はあらゆる人々と接触し、雑談をする機会が多い。市役所に勤める人々。仮設住宅で暮らす避難者。街づくりに熱心な駅前商店街の人々。独自の野菜作りを営む農家の人たち。普段、ともに山登りをする郡山勤労者山岳会のメンバー。クライミング・ジムで出会う人たち。そこにいる老若男女の口から、原発問題が語られることはまずない。極端に言えば、それが語られるのはニュースに携わる人間の間だけなのだ。しかも、それは自分たちの仕事の材料として語られるだけで、自分自身の被曝線量がどうのこうのといった話はまずない。

 私もここに来た当初は、年間の許容被曝線量は1㍉シーベルトか、それとも20㍉シーベルトか、といった話や、廃炉に向けた第一原発の取り組みを熱心に学び、日々頭の中は原発問題でいっぱいだった。ところが、自分の興味の対象はほどなく、原発事故後の人々の心理に移り、今はむしろ、この郡山という町の未来像をテーマにしようとしている。それは、街づくりという言葉に置き換えてもいいが、人口が次第に減り、高齢化が進み、経済規模が縮小していく、高度成長が終わった時代、農業など産業、雇用、教育のあり方がどう変わっていくのか、そこに焦点が絞り込まれつつある。

 その際、3年前に起きた原発事故は一つの通過点、歴史の出来事であり、あくまでも背景にすぎない。あれはなかったんだと忘れ去ることなどできないが、それだけを積極的に語る気はない。事故とその後の放射能汚染というのは、どうしたって覆るものではない。それを踏まえた上で、どう生きていくか。どうこの町を暮らしやすい地にしていくか、もっぱらそちらに興味が向いている。

 ジャーナリストにはいろいろな人がいる。最近、読んだ朝日新聞の元海外特派員の言葉に「えっ」と思うことがあった。仕事に挑む姿勢を聞かれた彼は「バランス感覚が一番大事」と答えていた。「つまり、どんな取材対象にも一定の距離を置き、相手の考えや意見に左右されず、客観的な目で全体を眺める姿勢です。特定の相手にのめり込めば、問題の本質を見誤ることになります」

 私とは全く違うと思った。私はどちらかと言えば、依り代のようなもの。英語で言えば、ミディアム。これはラテン語、mediumの英語読みで、中間や媒体など「間にあるもの」や「媒介するもの」を指す。青森県の恐山にいるイタコと同じで、そこにあるものが乗り移るような存在。つまり目の前の相手が苦しんだり悲しんでいるとその感情がもろに私の中に入ってくる。といって私自身がくずおれるわけではないのだが、対象に距離を置くことなどできない。

 ここ郡山にいるわずかの間に、原発問題が「背景」に後退していったのは、ここにいる人たちの思いや考えが私の中にじわじわと入り込んできたからだ。必然、彼らと同じ感覚で物を捉え、原稿を書くことになる。

 そんな話をやはり東京から来て間もない県内の編集者にしたら、「それは脳内風化ですよ」と言われた。「自分もときどき東京の人間と話してて感じるんですが、だんだんと福島人の頭になってしまっていて、福島イコール原発問題というふうに短絡せず、だんだんと原発が頭の中に占める領域が狭まっている気がするんです。これを脳内風化って言うんです」

 いやなこと、二度と繰り返されたくないことから目を背け、さも何事もなかったかのように自分を欺いて日々を生きる。意識するにせよ、しないにせよ、次第に自分の中にある原発事故に絡んだ問題を風化させていく。それを「脳内風化」という一言にしてしまえば、否定的に聞こえるが、私はそうは思わない。

 良い悪いの問題ではない。人間とはそういうもの。風化は忘却ではない。前に進もうとする人間が生きていく上で欠かせない知恵なのだ。いつまでも同じところにとどまって嘆き、不平を言い、他者に償いを求め続けることに人は疲れ果てる。今ある物で、今ある現実を受け入れ、どう前向きに生きるかに重きを置くほど、風化は進む。

 私の興味が原発ではなく、それ以外の、街に暮らす普通の人々の日常に向かっていったのは、ここに暮らしている以上、当然のことだった。無理して距離をとり、バランス感覚を保つ必要はない。

 

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