自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

また逢う日まで

2016年7月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 先日、ゲイの老人ホームを舞台にした映画「メゾン・ド・ヒミコ」を見た。やや冗長で、演出が過剰な感じがしたが、一ついい場面があった。

 ディスコというかクラブでのシーンだ。長いイントロ演奏のあと、尾崎紀世彦の歌、「また逢う日まで」のダンスバージョンが始まり、俳優のオダギリジョー柴咲コウらの踊りの振り付けが良かった。

 黒澤明が以前、NHKのインタビュー番組でこんな話をしていた。全体として印象が薄かったり、ストーリーがわかりにくくても、一シーンでも、映画でしか撮れない場面、映像美を残せれば、その映画は成功している。

 このダンスのシーンもその範疇に入る気がした。「また逢う日まで」に対する私の思い入れの強さもあるだろう。トランペットの出だし、「タッタタラッタラッ」をいったい何度聞いたことか。

 初めて買ったシングルレコードがこれだった。小学4年の夏休み。反抗期だった私は母親とぶつかり、家を追い出され、ひと夏、岡山県の身内の家で過ごした。面倒をみてくれた叔母が車を運転しながら、「アキちゃん、好きなレコード、こうてやるよ」と言ってくれ、すぐにこの曲を選んだ。

 レコード屋に行くと、「おばちゃんも、これがええな。アキちゃん、これこうて」とおばちゃんが持ってきたのは加藤登紀子の「知床旅情」だったが、なぜか買いたくなかった。それならまだ小柳ルミ子の「私の城下町」の方がいいと思った。

 「また逢う日まで」はおばちゃんのプレイヤーで毎日すり切れるほど聞いた。

 当時流行った整髪剤「マンダム」のコマーシャルソングもこんな感じで、妙に明るく派手な感じの曲調が米国、そして日本でも広がっていた。曲も好きだったが、詩がなんだか良かった。

 <また逢う日まで 逢える時まで/別れのそのわけは 話したくない/なぜかさみしいだけ なぜかむなしいだけ/たがいに傷つき すべてをなくすから>

 と歌うと一気に曲は盛り上がりサビに入る。

 <ふたりでドアをしめて/ふたりで名前消して/その時心は何かを 話すだろう>

 10歳の私が引っかかったのは「ふたりでドアをしめて」というフレーズだ。「ドア」という当時の流行歌にはない音が新鮮だったのもあるが、次の「ふたりで名前消して」 も含め、情景が浮かびづらかった。まだ具体的な恋愛を知らない子供でも、別れた二人が晴れがましい気分で一緒にドアを閉めるという姿に現実味を感じなかったのだ。

 それでも、「そのとき 心は何かを話すだろう」という締めくくりが明るく、冒頭の「また逢う日まで」にとつながる。別れの曲だが、再会を熱望する曲でもあるのだ。

 しばらくぶりに当時のシングルレコードをかけてみると、音はバリバリとしてはいても、レコード盤の溝から歌の意味が湧き上がってくる感じがした。そして、初めてこの歌がわかったと思った。

 図書館で作詞家、阿久悠の本を一通り読んでみたが、詳しく解説しているものはなく、ネット情報もこんな風だった。

 同棲していた恋人同士がアパートのドアを閉め、表札を外して別れていく。

 そんな中、阿久悠の評伝に出てくる歌手、尾崎の言葉が誠実だった。この歌を何十年も歌ってきたが難しい、歌の意味を自分は語れないし、語るべきではない、受け止める人がそれぞれに受け止めればいいのだと思う――といった話だった。

 曲を歌うことを、スペイン語ではinterpretar という。通訳する、解釈するという意味の動詞だ。「あの曲いいね」と言われたら、「誰のinterpreta?」、誰の解釈? という風に話す。つまり、歌い手は、その曲の解釈者なのだ。その尾崎が、一つの解釈を押しつけるべきではないと語るところに、彼がどれだけこの曲を大事に思っているかが伝わり、単純な詩ではないというメッセージも込められている。

 今の私の解釈はこうだ。

 冒頭の語り、時制は、別れたときのものではない。これは別れてしばらくたってからの話だ。尾崎が歌っているので、男が女に語っているようだが、そうではない。語り手は男でも女でもよく、普遍的な言葉と言える。その語り手が別れを反すうしながら、相手にというより、自分自身に語りかけている。なぜなら、二番でこう語っているからだ。

 <また逢う日まで 逢える時まで/あなたは何処にいて 何をしてるの/それは知りたくない/それはききたくない/たがいに気づかい昨日にもどるから>

 「明日からどうするの?」「どこに行くの?」という別れの日に聞く単純未来ではない。仮定法の未来だ。つまりいつとも知れないまた逢う日のその時点で過去を振り返っているのだ。それまで、あなたが誰とどこにいて、何をしていたのか、そんなことは知りたくないと言っているのだ。

 「ドア」のくだりは、こうだ。

 二人でドアを閉め、名前を消すとは、別れてしばらくして、扉が閉まるように二人の恋愛感情が消え、心で相手の名前を呼び続けることもなくなったとき、初めて、心が何かを語り始める。

 心が何も語らなければそれだけの話だし、語りだせば、また逢うこともあるだろうという、失恋した者の希望の歌なのだ。「会う」ではなく「めぐり逢い」の「逢う」という言葉を使っているのも、再び初めての出合いのように始まるというニュアンスが込められている。

 と、そんな風に聴き入ったが、歌とは、実に大きなメディアだとつくづく思う。一つのフレーズが一人の心に何十年も残り、その意味をずっと考えさせるのだから。

 

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