自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

近未来が見えない(その1)

2011年12月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 「まあ、今が一番いいときかもしれないね」
 これは小津安二郎の映画「麦秋」の中のセリフだ。私のうろ覚えなので正確ではないが、こんな場面だ。日曜日、鎌倉の家から上野に行楽に来た老夫婦が夕暮れどき、花壇の縁に座り2人で静かにみかんを食べている。これから家に帰るところのようだ。二人並んで前を見ながら、夫がやさしくゆっくりとした口調でそう語る。妻も「ええ」とうなづくが、そのとき空の方に目を向け、「あら」と指を差す。風船がのぼっていくのが見える。
 「ああ、手を離した子は、きっと泣いてるよ」
 夫がそう言うと、妻はこう答える。
 「そう言えば、コウイチにもそんなことがありましたね」
 「ああ、そうだったねえ」
 再び風船がしばらく映り、場面はそこで終わる。コウイチとは、同居している、すでに中年の長男のことだ。
 何てこともない場面のようだが、少しずつ空へと上っていく風船を見たとき、私は哀しい、切ない気持ちになった。この場面のしばらく前、この老夫妻には戦争に行ったきり帰ってこない次男がいたことがさりげなく描かれる。2人は子を亡くした夫婦なのだ。
 近所の女性が次男を話題にしたとき、夫の方がきっぱりと、「いや、もう帰ってきませんよ」と繰り返す。妻の方は戦後10年ほどがすぎてもまだ、息子がどこかにいるのではないかと、ラジオ番組の「たずね人の時間」などを聞いていると話し、悲しそうな顔をする。
 彼らは長男夫婦と孫、そして20代の結婚前の娘と同居しているが、故郷の奈良県に帰ろうとしているころの物語だ。家族がみな一緒に過ごせる最後の時間をすごしている。
 「今が一番いいときかもしれないね」というセリフは、そんな自分たちの境遇を語っているようにもとれるが、やはり戦後の平和をかみしめているようにもとれる。次男が画面に顔を出すことはないが、家族はいつまでもどこかで死者を引きづっている。戦争が尾を引いている世代の言葉なのだ。

 世界はどうなっていくのだろうか。私はよくそんなことを考えるが、なかなかわからない。あまりいい要素がないので、自分の子どもの将来を考えると暗澹とした気持ちになる。
 私の父は1929年、昭和4年に岡山県津山市に生まれ3歳のとき、蚕糸工場の跡取りだった父親を結核で亡くし、未亡人の母親と県内の村に移り、12歳まで過ごした。その後、父方の本家から津山市に呼びもどされ、伯母の家に養子として入り、旧制中学に通い始めたのが1941年、昭和16年だ。海軍兵学校に入る寸前に終戦となり、学校をやめ、母親の下に戻り、そこで中学を卒業すると薬品会社に勤めた。そしてほどなく父方の身内に呼ばれて上京し、身内が営む会社で働きながら26歳で大学を出た。彼の専門は工学部の鉱山学で、その関係から常磐炭鉱に技師として就職した。
 昭和36(1961年)、私は常磐市、現在のいわき市で生まれた。しかし、記憶はない。1歳のときに東京に引っ越したからだ。戦後の経済成長期に極端な貧しさを知らずに育った。高校3年の1979年は東京サミットがあり、誰もが日本の躍進を少しこそばゆいような気分で感じた時代だ。その後は大学進学で札幌に暮らし、25歳でエンジニアの仕事に就いた。その3年後に新聞記者になったのが1989年のことだ。
 91年に長野県大町市で生まれた私の長男は物ごころついたころから、南アフリカ、メキシコに暮らし、イタリアの国際学校を出たいまは、東京の大学に通っている。20歳だ。
 この息子がこの先、どんなふうな人生を辿るのか、ちょっと想像がつかない。それは今から5年後、いや2年後でも、世界がどんなふうになっているのかが、よく見えないからだ。
  昭和一ケタ、昭和30年代、平成初期の生まれ。昭和一ケタはまだ国が貧しくのどかな時代だったが育ちざかり、食べざかりのころに戦争を経験する。一方、30年代生まれは、まだ飽食の時代とは呼ばれてはいなかったが、国は年々成長し、正月を越える度に豊かさを、希望を感じられる時代に育った。
 ここでノスタルジアは禁物だ。父の世代であれ、私の、あるいは私の子どもたちもみな昔を懐かしむはずだ。昔はいいに決まっている。
 では私の息子の世代はどうだろう。彼が大学を出るころ、今から2、3年先、世界はどうなっているだろうか。いい時代になっているだろうか。いや……。
 未来のことなど考えても仕方がないことだが、現在を見る限り、あまりいい要素はない。悪いことばかりが続くのか、あるいはその先に何か光が見えるのだろうか。

(この項つづく)
 

 

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