自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

レクイエムの月(上)

2024年7月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

 

 5月、立て続けに先輩記者たちの偲ぶ会が開かれた。一人は昨年末に亡くなった元ソウル、ワシントン特派員の中島哲夫さんで、享年66。50代半ばで若年性アルツハイマーを発病し、社説を書く仕事ができなくなり、人とも会わなくなっていた。最後は家族に見守られひっそりと逝かれたという。

 病気が病気だけに、生前会いに行けなかった人も多く、有志たちがどうしてもと東京・大手町の広いレストランで偲ぶ会が開かれた。

 中島さんとは、私が毎日新聞の松本支局大町駐在から東京の外信部に異動してきた30歳の春に初めて会った。会社の寮も同じで、近所づきあいもした。彼はその1年前に九州から朝鮮半島担当として同じ部署に来ていたが、真面目ながら、クスッと人を笑わせる面白い人だった。「僕は渥美半島の百姓の倅だから」というのが口癖で、「いやあ、もうこんなになっちゃって」と薄くなり始めた頭髪を見せて人を苦笑させることがよくあった。

 ソウル時代、分析が鋭いだけでなく、優しい性格なので韓国の人々にとにかく愛されていたようだ。私は彼が書く硬い政治記事よりコラムが好きで、ソウルの地下鉄から地上に出ると増毛剤か何かのチラシを手渡された話をよく覚えている。「はて、なんでだろう」と立ち止まり、チラシを配る男の様子をうかがっていると、階段をあがってくる男たちの髪の減り具合を上から見てはチラシを渡していることに気づく、というような話に大笑いしたものだった。

 彼がワシントン支局にいたころは、ちょうどイラク戦争の真っ最中で、私もメキシコから応援に行き、彼の家にも泊めてもらった。ある日、私の出張があまりに長いのでメキシコから家族がワシントンに来たことがあった。そのとき、10年ぶりに妻に会った中島さんの最初の一言が、やはり頭頂部に優しく手を当てながら「いやあ、こんなになっちゃいまして」だった。

 最後に会ったのは東京の会社の廊下だ。すでに病気が進行していた彼は私に会うなり、「おお、藤原君かあ、いやあ久しぶり」と言うと、「ちょっと待って、 ちょっと待って」と言ってメモ帳を取り出し、「いやあ、きょう藤原君に会ったってこと、書いとかないとすぐ忘れちゃうんだよ」と言って照れ笑いをした。

 以後、私は彼を訪ねることも、詳しくその後の容態を聞いて回ることもなかった。本人が人に会いたがらなくなっていると仄聞したからでもあった。亡くなったと聞いたときは、そんな経緯からひときわ愛惜の気持ちが募った。同じような罪悪感、後悔を抱えた仲間がたくさんいたのだろう。偲ぶ会には近年珍しいほど人が集まった。

 その2日前の5月10日、やはり毎日新聞の先輩で麻雀仲間だった岩橋豊さんが急死した。73歳だった。この1月、虚血性心不全で倒れたが手術もうまくいき、後遺症もほとんどなく、当日は朝からゴルフに行く準備を整えていたという。ブログ 「隠居志願のつぶやき」でも、「明日はゴルフだ」と書き残していた。

 深夜、突然胸が苦しくなり、近くに住む長女に「なんだか胸が痛いんだ」と電話したら「すぐに救急車を呼んで」と言われ、「そうする」と応じたそうだが、家族が駆けつけたときはテーブルの前に座ったまま亡くなっていた。中年になるころ、妻と別れ、一人暮らしだった。

 この人とは愛憎半ばするような関係だった。私が新聞に記事を書いたり、本を出したりするたびに何かと感想を書いて携帯電話にメッセージをくれた。そこに時折「紙面の私物化が甚だしいね」「自費で紙面を私物化するのは手だね」といった毒のあるコメントや「載せる場があるのだから大いに仕事をするべし」「少しは売れそうでなにより」といった先輩風を吹かせることがあったので、昨年春ごろから私は段々と疎んじるようになった。彼は共通の知人に、私について「60をすぎてから友達ができるとは思ってもいなかった」と書き送っていたことがあり、私のことを単なる後輩ではなく友人と思っていたことをあとで知った。葬儀の場でも、共通の友人が「岩橋さんは滅多に人を褒めない人だけど、藤原君の原稿だけは評価していた」といった話をしてくれ、「ああ、しまった」と思った。

 何かとチクリチクリ言うのは彼なりの愛情表現だったのだ。でも、私はそんなふうに受け止められなかった。

 特に、書いたものについて言われることに神経過敏な私は、彼の短いコメントを皮肉だと受け止め、それに数日間苛まれることがよくあった。それを80代の友人にこぼすと「そんな男とはもうつきあわなくていい。君にとって害にしかならないよ」と言われ、私は次第に距離を置くようになった。

 それに感づいたのか、岩橋さんは「(新刊を)非常に面白く読みました」「(私をインタビューした)アエラの記事拝見、いい写真だね」などと毒のないメッセージをごくたまに寄越すようになった。それでも私は「お読みいただきありがとうございます」といったそっけない返事しかしなかった。

 昨年夏、「アフリカに行かれる前に一度お祝いをさせてください」とメッセージをくれ、私が向こうにいる間も「アフリカの成果が楽しみ」と書いた年賀状をくれたが、私はそれらに返事をしなかった。

 帰国したのだから電話をすれば良かったのだが、そのままにしていたら、知人からメッセージが入った。「岩橋さんが今朝亡くなったのはご存知でしたか?」

 えーっ!と驚いた。と同時に、その数日前から2度、3度と岩橋さんのことを思い出していたことに気づいた。

 あれはなんだったのか。それを機に、私のレクイエムの月、死者を思う日々が始まった。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)