自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

むき出しの怒りについて

2017年2月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 自分はかなり気分屋だとは認めるが、人間としての大方の負の感情は自分自身の中で抑えることができる。悲しみ、憎しみ、恨み、ねたみ、そねみ、あるいは恐怖といったことは、理性でどうにか克服できる自信がある。これまで生きてきた体験を振り返り、多分大丈夫だろうという自信はある。だが、どうにも自信が持てないのが、怒りだ。

 2012年の5月、こんなことがあった。新宿歌舞伎町のマクドナルドで人と待ち合わせしていたときのこと。私は100円のホットコーヒーを注文し、カウンターの隅でかき混ぜていたとき、太った大男がどたどたと店に入ってきて私にぶつかり、コーヒーがまるごと床にぶちまけられた。男はヒップポップ系というのか、だぶだぶのズボンでサングラスをかけていた。後で知ったが、当時、歌舞伎町の辺りでよく見かけた「半グレ」と呼ばれるチンピラだった。派手な衣装の若い女性を連れた男は、コーヒーをぶちまけたことに気づいたはずだが、何も言わず、螺旋階段を上っていった。

 一瞬あぜんとしたが、私はすぐに彼を追いかけ、「おい、待て!」と声をかけた。瞬発的な怒りである。無視して上って行く彼らに二階で追いつき、「おい、ぶつかったの、気づかなかったのか。コーヒーがこぼれたじゃないか」と言うと男は、「何じゃあ! このボケが。知るか、てめえ、どこのもんじゃ!」などと言うと、いきなり私の胸ぐらをつかもうとした。どうにかかわして距離をとり、「君が入ってきたときに、俺にぶつかりコーヒーがこぼれたのに気づかなかったのか?」と同じ問いをぶつけると、彼はさらに声を荒げ、広島弁風の言葉遣いで「何じゃ、わりゃあ、ぶっ殺されてえか、このクソぼけ」といったことを猛獣の咆哮のようにたたみかけた。

 チンピラである。まともに相手をしてもろくなことはないと、ここで引き下がるのが常識人だが、すでに怒りが脳内を占めた私は、、愚かにもこう言い返していた。

 「おい、お前、なに興奮してんだ? 普通に落ち着いて話せないのか? どうしたんだ。頭は大丈夫か?」

 明らかな挑発だ。すると男は「こんの野郎!!」と再び胸ぐらをつかもうとしたので、私はその腕をとり、ちょっとしたもみ合いになった。男は体の割に力はさほどでなく、互いに押し合いへし合いで力が均衡し、互いの顔が20㌢ほどに近づき、にらみ合う形になった。サングラスをしているので男の目は見えない。だが、男は私の目を見ている。

 こんなつまらない暴力事件を起こせば、職だけでなく、もの書きではいられなくなるかもしれない。いや、私自身が半殺しの目に遭う。あるいは相打ちになって打ちどころが悪ければ彼が死んでしまうかもしれない。過失致死ではなく殺人を問われる。ここは「すみませんでした」と謝り引き下がるべきだ。

 瞬時にそんな考えが頭をもたげたが、こういうときの瞬発的な怒りを私は止めることができない。子どものころ以来、暴力をふるったことなど一度もないのに。

 イメージでは頭の中に何か火花のようなものが渦巻いているような感じで、異常に興奮しているのだが、同時に水を打ったような静けさがそのベースにある。「これで死んでやろう」「ついに死ぬときが来た」などと思っている自分がいる。

 すると運よく、天使の声とでも呼べそうな助け舟が現れた。

 「ちょっと、やめなよお!」。その男の彼女が彼の脇を思いっきり引っ張り、止めに入ったのだ。すると、それがスイッチになったのか、彼はすっと力を緩め、つられて私も力を抜くと、彼は腕をふりほどき、そのままなだれ込むように彼女とともに階段を駆け下り、「てめえ、覚えてろ! ぶっ殺すぞ!」などと怒鳴りながら店を出て行った。

 ほっとした。力が抜けた。殺さずに済んだ、と思った。

 殺人事件のニュースを見ると、人ごとではないと私は思う。古い新聞発表の表現に「カッとなってやった」という言い方があるが、もし彼と格闘することになり、自衛のため必死になった私のこぶしが彼の眉間にぶつかり、彼が死んでしまえば「カッとなって殺人」ということになるだろう。

 以前、会社の編集会議で殺人事件が話題になったとき、「自分も人を殺してもおかしくない。たまたま殺さずに済んできただけだ」という趣旨の話をしたら、突然沈鬱なムードになり、話題が切り替わったことがあった。誰も「俺もそうです」「私もそう」とは応じなかった。

 私が異常なのだろうか。

 実は同じようなことがやはり12年の夏に起きている。借家のあった西武新宿線武蔵関駅に降り立ったとき、「肩がぶつかった」と言って30前後の男が追いかけてきて、もみ合いの末、にらみ合いになった。夏の夕刻、ホームの上で対峙した私たちに、隣のホームから「おい!、やめとけ!」と年配の二人組の男性から声がかかり、その瞬間、男はきびすを返し姿を消した。この時も天使の声に助けられたのだ。

 立ち去ったのは彼で、私ではなかった。駅の階段を上りながら、私は自分を恐ろしいと思った。すぐに醒めるのに、そのときの不条理とも言えそうな瞬間的な怒りはどこからくるのか。何が自分をあれほどむきだしにしてしまうのか。

 以来4年あまり、そんなことはない。「いつも穏やかですね」「怒ったりしないんですか」と言われるくらい普段の私はできるだけ笑顔を絶やさず落ち着いている。それはどこか理性、自制があるからだろう。

 自分の気質、特に突発的な怒りはどうにもならない。そこにいたる機会をできるだけ避けねばならない。普段のストレスを減らし、何かあればとにかく逃げなくてはならない。そう自分に言い聞かせている。

 米国の新大統領、トランプ氏を見ていると、人間がむきだしの時代に入った気がする。むきだしにならないよう、まずは自分から抑えなくてはと強く思う。

 

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