自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

恐怖は老けるのか

2017年11月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 最近、山で考えた。年を重ねても死の恐怖だけは変わらないのでは、と。

 私が好きなのは夏は沢登りに岩登り。冬は壁登りと山スキーだ。頂上に立ちたいわけではない。「百名山制覇」といったピークハンティングには全く関心がない。沢の源流まで歩き、尾根に出て、あと50メートルで頂上というところでも、登らずに下りてくることが多い。

 もちろん、樹々の中でぼーっと佇んだり、河原で焚き火を囲んだりするのは大好きだ。だから、山にいることが好きなのかな、と思っていたこともあるが、自分の動機はどうもそうではない。ただ山にいるだけではダメなのだ。それなりに緊張する山登りをした後でなければ、ぼーっとしていても満たされた気分にならない。

 では、なぜ登るのか。やはり登ることそのものを楽しんでいるのだ。ザイルを出して滝を越えたり、壁にへばりついたりしている瞬間瞬間、自分の脳が普段より躍動しているような気がするからだ。

 脳が躍動というのも変な表現だが、喩えて言えば、陣太鼓が速いテンポで「ダンダカダンダカ、ダンダカダンダカ、ダダン、ダダン」と耳の奥で鳴り響いている臨戦態勢のような感覚。

 臨戦というからには何かと戦っていることになるが、おそらく相手は恐怖だ。自分の内面から湧き上がってくる恐怖と戦っているのだ。

 死ぬのが怖いと思うとき、その怖さを押さえつけようと、あるいは緩和させようと、脳内の物質が、たとえばアドレナリンといったものが普段以上に出ているのだろう。恐怖とは脳のかなり奥の方、古い層から出てくる物質がもたらすもので、これを別の物質で抑え、バランスをとっているというイメージだ。

 つまるところ、私が山に登る理由は、単に死の恐怖を楽しんでいるだけではないか。そんなやつは「勝手に死ね」と思われる方もあるだろうが、死にたいわけではない。それでなくても私は幼いころから、人より臆病な方だ。死だけではなく、他人の視線や憎悪、妬み、羨みといった感情も過剰なほど恐れている。何かと怖がりなのだ。

 私が山登りに惹かれるのは、死への恐怖を楽しむというより、それを克服する、あるいは、すり抜けることで、はじめて生きている喜びを直に感じることができるからだ。最近そう思うに至った。14歳から山登りを始めたころから、本当の動機はそこにあったのではないかと、この歳になって気づいた。

 私が史上最高だと思う山岳ドキュメンタリー「メルー」(米、2015年)のジミー・チン監督が以前、こう話していた。「死に近づく経験はとても健全なことです。誰にも必ずやってくる死を、多くの人は普段考えていない。でも一度でも死に近づけば、死はよりリアルに、より身近になり、人間に与えられた時間がいかに短く、貴重かがわかる。必然、無為に生きようとはしなくなる。日々の忙しさの中で忘れがちだけど、山に行けば、その思いがよみがえる。それが自分が山に登る動機の一つだと思う」

 死にかけた時の脳の働きについてはこう語った。「実際は一瞬なのに、時間が伸びたみたいに、スローモーションの中で脳が実に素早く思慮深く、採るべき選択を考えている。脳に何らかの化学反応が起こるのだと思う」

 この化学反応は老いても衰えることはないのではないか、というのが私の思いつきだ。

 若いころ、さして親しくもない後輩や知人とよく何時間もおしゃべりをしていた。退屈とは感じず、薄っぺらな冗談を言っては笑い合っていた。でも今は20歳のころのように、つまらないことに、腹が痛くなるほど笑い続けることはなくなった。若いころは喜怒哀楽などの感情をもたらす感覚、脳がまだフレッシュな分、それができたのではないだろうか。こどもが一人で大はしゃぎしているように。

 10年ほど前に閉じた新宿の居酒屋「わだち」を経営していた60代の夫妻がこんな話をしていた。「この前、久しぶりに昔の山仲間と小屋に集まったんだけど、なんだか全然面白くなかった」「もう誰もほとんどしゃべらないのよ。昔は一緒に小屋にいるだけであんなに盛り上がったのに。話が続かないの」

 年齢を重ねるにつれ、さまざまな感情が磨耗していく。逆に勘の鋭さは増していくとも言われるが、恐怖はどうだろうか。脳の最も深いところからもたらされるという恐怖はさして磨耗しないのではないか、と私は自分の感覚からそう思う。

 海や山、戦場で何度か死にかける体験をし、その都度運良く助かってきたが、「死ぬなんて怖くないよ」とすれっからしにはなれない。

 終末医療に携わる医師でお坊さんでもあった人が、末期ガンで死に瀕し、パニックに陥るのをNHKが映していた。静かな気持ちで死に向かえる人などそうはいない。

 誰ひとりとして、そこから戻ったことはない死は未知の領域だ。その死への恐怖は程度の差こそあれ、万人に平等に与えられ、老いても若くても、いざそれを前にした時の感覚はさほど変わらない。

 それを前提とすれば、山にひかれている一つの動機は、恐怖という、唯一若いころと変わらない感覚をあらわに感じることで、自分は今も過去と同じように生きていると実感できるからではないか。

 そんな風に思った。

 いや、そんな風にあれこれ理屈をこねるところが老いの証拠、あるいは老いに抵抗(アンチエイジング)している、ということなのかもしれないが。

 

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