自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

差別する心、そうではない心

2019年8月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 ハンセン病の元患者や家族への差別に対する国の責任を認めた今年6月の熊本地裁判決を、国側が控訴しない方針を7月9日に発表した。患者を隔離し、偏見をなくすための教育を怠った国が責められるのは当然だが、「住民にも責任」という毎日新聞の見出しが目を引いた。

 「差別を除去する責任は国だけではなく、『無らい県運動』の実動部隊となった都道府県や住民にもある」という内田博文・九州大学名誉教授のコメントに添えられたタイトルだった。

 世界中にはあらゆる差別がある。状況は年々改善されているかに見えるが、トランプ米大統領誕生に象徴されるように、いまだに意図的に差別や偏見を政治の道具に使う例が少なくない。法律や制度上の差別が真っ先に問題にされるのは当然だが、それにどう反応するかは、ひとり一人に負うところが大きい。

 ハンセン病と聞いて私が思い出すのは映画作品だ。松本清張原作の映画「砂の器」(1974年)の加藤剛演じる主人公は新進の音楽家として活躍しているが、ハンセン病にかかった父親(加藤嘉)と共に村を追われた過去がある。主人公は過去を隠すために、育て親でもあった実直な男(渥美清)を殺してしまう話だ。私は、自分の出世の妨げになるからと渥美清を殺してしまう加藤剛に感情移入ができなかった。渥美清は善人を絵に描いたような男で、今は大成功している加藤剛が懐かしくなり、ただ訪ねたにすぎない。「おじさん、父のことはどうか口外しないでください」「わかってるよ」で済んだ話だ。ハンセン病患者への差別がひどいからと言って、なぜ殺人を犯してしまうのか。そこがこの作品の根本的におかしいところだ。

 ハンセン病とは関係ないが、森村誠一原作の映画「人間の証明」では、米軍の黒人男性との間に生まれた子がアメリカから訪ねてきた途端、殺してしまう日本女性の話だ。岡田茉莉子演じるこの女性も「砂の器」同様、ファッションデザイナーとして成功を収めており、黒人と関係した過去を隠すため、実の息子を刺殺してしまう。

 原作が76年に書かれ、映画は77年に公開され、角川書店の大宣伝も手伝い大ヒットした。

 「砂の器」も「人間の証明」も犯人たちは、「ハンセン病」「黒人」に対する差別、世間の目の間接的な被害者であり、自分を守るために殺人を犯す。

 とんでもない話である。世間体のために、恩人や息子を殺してしまうのだ。

 映画の内容がおかしいのはまだしも、それが問題にならず、視聴者に涙さえ流させたのは、70年代の日本の露骨な差別状況を示してもいる。自分にとって貴重な相手までをもあっさりと殺してしまうほど、差別が苛烈だったと言えるが、私には主人公の気持ちがどうにもわからない。成功などなげうって、自分の恩人、あるいは息子となぜ生きようとしないのか。地位から引きずり降ろされたら、差別と闘えばいいではないか。

 というより、出世の邪魔だと殺人を犯す主人公らの方が差別者たちよりもたちの悪い、心の腐った化け物に思える。

 社会にはびこる差別に流される非常に弱い国民の姿がここにある。差別がそれほどひどいのだから、個人は押しつぶされ過ちを犯さざるを得ない、というような正当化が底にある気がする。

 両作品の少し前、74年3月に日本で公開された「パピヨン」というアメリカ・フランス合作映画がある。スティーブ・マックイーンのファンだった当時小学6年の私は、ひとり渋谷パンテオンまで見に行った。帰りに山手線に乗っていたら隣に座った外国人が私のパンフレットを見て「パピロン、パピロン」と言っていたのを、車窓の雨粒とともによく覚えているくらいだから、私はよほどこの作品にのめり込んだのだろう。

 脱獄を繰り返す主人公パピヨンが仲間と逃走中、ハンセン病患者が押し込まれている島にたどり着く。

 ひとり交渉に行ったパピヨンは島のボスと差し向いになる。年長者のボスは吸っていた葉巻をパピヨンに差し出す。しばらく相手を見つめたパピヨンは、思い切って葉巻をすぱすぱと吸い始める。するとボスは「感染しないと、知っていたのか?」と問い返し、パピヨンはかすかに首を横に振る。

 交渉は成立し、脱獄者たちはボートや食料などさまざまなものを与えられ、ボスたちに見送られ島を去る。

 これは作品の一場面であり、映画は特にハンセン病差別に力点を置いてはいない。それでも私はこの場面を実につぶさに後年までよく覚えていた。そして、その意味を繰り返し考えてきた。

 パピヨンは単に勇気があっただけではない。彼が他の人間たちと違っていたのは、見知らぬ相手の目を見て、相手を信じた、あるいは相手に自分の運命を預けることができた、というところだ。

 「ハンセン病」というその人に貼られたレッテルを見るのではなく、相手そのものを見て、自分をゆだねる。ただそれだけのことが簡単なようで何と難しいことか。パピヨンには運命を預けた相手に殺されたとしても、それならそれでいい。それも人生、といった思いがあったのだろう。

 常に差別されてきたボスの方は、パピヨンの目を見て瞬時にそこに気づいた。この男は差別する者ではないと。それでも彼は葉巻で試してしまった。恥じたのはボスの方だったろう。

 差別は一人一人の心が生み出す。70年代の日本映画の主人公たちとパピヨン。何という心根の違いだろう。

 

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