自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

かた屋はどこへ行った

2015年8月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 先日、「かた屋」を思い出した。それは私が10歳のころの冬だった。通っていた東京の北のはずれ、足立区の小学校の前にある空き地に、かた屋はやってきた。

 というのも、小学2年のとき、東京の山の手、世田谷区から足立区の西新井に引っ越した経済ジャーナリスト、須田慎一郎さんから東京の思い出を聞くうちに、もんじゃ焼きや縁日の出店の話になり、かた屋を私が持ち出したのだ。

 彼は「ああ、ありましたね、色粉を塗るヤツですよね」と反応したが、さほど関心はないようだった。ただし、なぜか山の手には来ず、足立区のような東京の外れに現れる点で、意見は一致した。

 長じてわかったのは、かた屋は究極の子ども騙しということだ。

 秋か冬入りのころ、かた屋は小学校の前の空き地に店を開く。店といっても、置くのは素焼きの四角い「型」で、小さなものは縦横5㌢、厚さ3㌢ほどの直方体。大きな物になると広辞苑か百科事典くらいの型が地面に並ぶ。

 型には鉄腕アトム鉄人28号などマンガの主人公から動物まで、いろいろな顔が素焼きに掘り込まれている。

 下校途中、群がった子どもたちは、まず一番小さな型を20円ほどで買い、そこに埋める黒い粘土、直径3㌢長さ10㌢ほどの円錐形の特別な土を一個10円で買い、それを型にはめ込む。

 ぎゅっと押し込み取り出すと、アトムなどの立体の顔が現れる。今度は金、銀、紫、赤などの光る粉を買い、自分が作った土の像の上に振りかけ、色をつけていく。色粉(いろこ)はのみ薬のように新聞に小さくていねいにくるまれ、小さなスプーンの3分の1ほど、わずかな量でやはり10円だった。

 例えば、アトムの頭を金色、顔を紫、目を赤、ほっぺを銀色などに塗ると、自分がつくった粘土の像がより立体的に見え、大事な工作品に思えてくる。

 細部にきれいに粉をまぶし、自分なりのデザイン、色使いで独自の作品を作るのが楽しく、子どもたちはすぐにはまる。 多くの子はせいぜい50円くらいしか持っておらず、あわてて家に帰り、お金をつかんで戻ってくる。

 その場や、ときに家で完成させた粘土作品をかた屋のオヤジに見せると、「お、いい色だね。よくやったねえ」「上手いねえ。大したもんだ。しばらく飾っとこう」と褒められ、「5000」「10000」「20000」などと点数の入った人差し指くらいの四角い厚紙をもらえる。お札代わりだ。

 「お、いいねえ、じゃあ5000点」「ふん、これは大きいし、金色をよく使ってるから1万5000点」とその場で落札される。ところが、オヤジは受け取った作品を無造作にギュッとつぶし、他の粘土とまぜてしまう。

 つぶされる瞬間、子どもたちは「あっ」という哀しく悔しい失望感に襲われる。一方、色粉をふんだんに使った緻密な作品は大きな型とともにその場に飾られる。子どもたちは悔しさをバネに、自分の作品もいつか飾ってもらおうと、競うように粘土と色粉を買う。

 そんなことを繰り返し、お札の総計が2万や5万点にもなると、より大きな型と交換してもらえる。「その点数にもう50円足せば鉄人の型が買えるよ」などとオヤジに言われ、型を入手する。交換のとき、それまで持っていた型は返さねばならず、慣れ親しんだその型を渡すのがつらかった。

 でも大きな型を持つと、自分のランクが一気に上がった気になり、まだ小さな型に熱中している連中が子どもに見えてくる。そして、今度は粘土を2つも3つも買い、大きな型につめ、色粉もそれまでの何倍も買い、作品を仕上げると、オヤジに「おお、よく作った。色がいいねえ」などと褒められ、さらに高い点数をもらい、より大きな型を目指す。

 中には、完全にはまってしまい、一番大きな一辺が30センチもある「マグマ大使」の型を持ち、粘土10個分ほどを使った大作を仕上げる子もいて、私は密かに嫉妬し「上には上がいる」と半ば諦めながらも、自分はこの中堅の型で、もっといい物を作ろうと、さらに熱中する。その時点で積み上げれば1000円近くは使っているが、そんな勘定は一切せず、作品に没頭する。

 数日間、そんなことが続き、どんどん子どもが増え、最大の型を持った中学生くらいの子が「もっと大きいのはないの」「この点数、どうするんだよ」「この点数、金に替えてよお」などと言い出し、オヤジは不機嫌になり、そんな子を追い払うようになる。ときに視線を合わせなくなり、辺りに不穏な空気が流れ始める。

 そしてある日、かた屋は消える。

 放課後、空っ風の空き地に集まった子どもたちは「かた屋のおじさん、どうしたんだろう」「病気かなあ」「明日は来るよ」と情報交換し、ときどき中学生くらいの子や兄のいる子らから「かた屋、いんちきみたいだぞ」「金もって、逃げたぞ」などという批判が上がり始める。

 自分の型と作品をランドセルに大事にしまい、空き地で1週間もかた屋を待ったころにはすでに諦めているが、そのときの喪失感、かた屋のオヤジをひたすら待つ気持ちをわたしは今でもはっきり覚えている。

 そして1年、あるいは2年ほどしたころ、再びかた屋は現れる。それは別のおじさんだったりもする。「かた屋が来たぞ!」、こどもたちの伝令で小さな客たちがかた屋を取り囲むが、すでに高学年になった私は、もう型を買おうという気にはならない。なんとなく遠巻きに、その光景を見るだけだ。

 「あれ、インチキだぞ」「子ども騙しだぞ」。そんなことも言わず、少し大人になった私は、懐かしい気持ちで空き地の群れを眺めていた。

 

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