自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

故郷(その1)

2013年3月号掲載

毎日新聞夕刊編集部記者/藤原章生(当時)

 

 長く故郷を考えたことがなかった。

 こんな話がある。ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスのいくつかの作品に「いくつ国境を越えれば故郷にたどりつけるのか」という言葉が語られる。単に「生まれ故郷」ではなく、不安から解放される土地、心ゆくまで人生を堪能でき、日々笑いながら暮らせる理想郷といった意味合いが込められている。主人公たちは、出身地や祖先のルーツ、父が暮らす異国を目指し旅を続ける。

 私は福島県いわき市に生まれたが、親の仕事の都合で1歳のときに東京都板橋区の平屋に引っ越し、そこで10歳の夏までを過ごした。父親が脱サラし、足立区の古千谷(こじや)という沼や田んぼを埋め立てた、原野のような地に工場と家を建て家族5人で移り住んだ。近所の小学校をのぞきに行くと、ボロボロのズボンをはいた子どもが駆け回り、同じ東京でこんなに違うのかと驚いたが、カエルやザリガニがふんだんに獲れる番外地のような土地がすぐに好きになった。

 高校生になると、首都圏での暮らしが嫌になった。中学を出て、電車で40分ほどかけて通う満員電車に耐えられず、自転車で毎日、40分かけ、西日暮里、谷中を経由し上野の山へと通った。

 山登りにはまり、大学になったら地方に行きたいという思いが強まり、もっとも異国的な北海道を選んだ。

 エンジニアとして就職した会社の本社は新橋にあり、いまの新聞社も竹橋にあるため、中継地のような形で私は東京に1、2年ほど住んでは地方や海外に暮らす生活を続けてきた。18歳で東京を離れて33年になる。その間、出たり入ったりで首都圏には5年ほどしか住んでいない。同僚たちが東京に家やマンションを買うのを見ても、そんな気になれず、帰るたびに場所を変え借家暮らしを続けている。東京にずっと暮らすつもりがないからだ。

 メキシコから一時帰国した2005年春、前の年に亡くなった父の法要を済ませ、身内と、父が家と工場を建てた辺りに行ってみた。そこは、東京都が大地震の際の避難場所として造成した舎人森林公園になっており、私達が住んだ家も工場も、父が一人で作った用水路にかかる橋もすべて、小高い盛り土と芝生の下に埋まっていた。

 そこに暮らし始めて1年ほどしたころ、家の150㍍ほど西に「ホテル・スカイラブ」というラブホテルができた。家の二階から夕日が沈む赤羽方面の地平線を見渡すと、手前に「スカイラブ」という真っ赤なネオンサインが浮かび上がっていたが、当然ながらそれも土の下に眠っている。

 いずれここを掘り返すことがあれば、家々の残骸はないにしても、オヤジの造った橋だけは出てくるかもしれない。そんなことを思ったりもしたが、感傷はもちろん望郷の念は湧いてこなかった。

 そこは確かに私が10歳から8年間を過ごした土地だが、故郷とは言い難い。立ち退きの反対運動はあるにはあったがさほど盛り上がらず、「入植者」はごぼう抜きのように一世帯、二世帯となじみの薄い地を離れていった。もとよりよそ者ばかりで、都に立ち退きを迫られれば、みな大人しく周辺の、手狭になった代替地へと引っ越していった。

 三里塚六ヶ所村とはいかないまでも、ダム建設で埋まる村々ほどの抵抗もなかった。辺りには昭和40年代、いくつかの新興住宅や分譲地ができ、多くの子供が生まれたはずだが、住民に強い結びつきができたわけでもなく、故郷と呼ぶには歴史が浅すぎた。

 昨年までローマで暮らしたとき、イタリア人に「パエーゼ(国)はどこだ」とよく聞かれた。「日本だ」と答えると、必ず「日本のどこだ」と聞いてくる。彼らの言うパエーゼとは国家ではなく故郷を指す。「東京だ」と答えると、それ以上は聞き及んでこない。そこが、彼らのイメージする故郷にはなり得ない、流れ者たちが集まる巨大な集積地だと、わかっているからだろうか。もし「鹿児島だ」「長野だ」などと応じれば、「それはどんな所だ」「何が名物なんだ」「どんな美味い物がある?」と聞いてくるはずだ。

 イタリア人の故郷への愛着は深く、彼らが87年と2011年の国民投票で2度にわたり脱原発を決めたのも、故郷でもし事故が起きたらという想像力がリアルに働いた面もある。そして、ミラノやローマへの都市集中が70年代には収まり、行政が勧めたわけでもないのに故郷へ帰還する動きが加速したのも、そんな愛着から来ている。お蔭で、イタリアには東京、大阪のような大都市は生まれず、せいぜい100万、200万規模の都市が全土に分散するところで人口集結は留まった。

 ローマなど都市でも小さな村々でも、イタリアには中世のような景観がそのまま残っている。古い建物を残したいだけではなく、自分たちが幼いころ見た風景をおいそれと失いたくないという思いからきている。景観を変えられるのを極端に嫌う。

 東京に帰るたびに違和感を覚えるのは、駅の改札口にしても、駅の階段から広場へと降り立つ風景にしても、いともあっさりと変えられてしまうことだ。建てては壊し、壊しては建てる。

 そこに立つと、かつてあった風景は瞬時に消え、記憶の奥に押しやられる。そして、その記憶は人の死と共に完全に消える。

 私達は慣らされすぎた。自分たちが暮らした家が盛り土の下に消えることに、何ら抵抗を感じなかった私自身も、そんなものだろうと思わされてきた。故郷と言っても、イタリア人やギリシャ人のそれとは随分と違う感覚を私達は抱えているのだ。

(この項つづく)

 

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