自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

違和感のない日本(その3)

2012年7月号掲載

毎日新聞夕刊編集部記者/藤原章生(当時)

 

 日本は変わったのか。帰国し2カ月間考えてきたが、答えが出ない。前より落ち着いた感じはするが、それは私自身が穏やかになったからかもしれない。観察者の脳の状態がいいときは世の中が明るく思え、そうでないときは何もかもが厭になる。何事も主観が大きく左右する。

 では、なぜ私は穏やかになったか? と口に出せば、家族や友人に「どこが穏やかだ」と大笑いされるが、人や社会に対し、前ほどいら立たなくなったのは事実だ。と言っても、仙人の心境とはほど遠く、小さなことで一喜一憂し、些細なことで人とぶつかる日々を続けている。体面や見栄など、どうでもいいことにまだ少しこだわっている。

 それでも、一つ変わったとすれば、いつごろからか私は日本人について諦観を抱くようになった。あきらめとは違う。これはこれで日本人の持ち味なのだからという開き直りのようなものだ。無理して人をまねることはない、本来のままでいいという考えだ。  日本人はよく「物言わぬ民」と言われる。いい意味でおとなしい。悪く言えば、自分がない。だから自己主張もできず人の目を気にし、大勢(たいせい)に流される。イタリア人はその逆だ。何よりもまずは自分が第一で、自分を語り、アピールするのに長けている。

 ティミドというイタリア語がある。恥ずかしがり屋、内気という意味で、「うちの子はティミドだから」と使ったりする。日本で恥ずかしがり屋は悪い意味ではない。自己主張しないのはむしろ美徳でもある。だが、イタリアでは、明らかな欠点とみなされる。

 山田洋次監督の名作「幸せの黄色いハンカチ」の高倉健演じる中年男は、スーパーのレジ係の女性に想いを寄せながら、それを打ち明けられない。ある日、レジの前に立ち、苦しい気持ちで「結婚してますか」と聞く。女性はいきなりの問いに気圧されるが、目を伏せ「いえ」と答え、泣きそうな顔になる。男は相手をまともに見られず、その場を去るが、そのときの何とも言えず恥ずかしくも嬉しくて仕方ない顔が、男のすべてを物語る。

 日本ではこうした木訥とした不器用な、つまりティミドな男が好まれる。やはり日本人の一つの典型、代表でもあるからだろう。

 フィレンツェに暮らす30代後半の日本女性があるとき、「やっぱり日本の男性とつき合いたい」と言った。その人は絵の勉強で現地に暮らし、そのときも地元の男性と同棲していたが、自分の感情をそのまま出す饒舌なイタリア男に食傷気味という感じだった。「日本人なら根の部分でわかり合える」というわけだ。彼女から見れば、「おじいさん」のような男から「君と関係が持てたら、死んでもいい。自分の人生がどれほど美しくなるか。どうか……」と泣きつかれることに、げんなりしているふうで、「男は黙って…」を懐かしんでいたようだ。

 2008年に福田首相(当時)が食糧サミットに参加するためローマを訪れた。150カ国もの国の代表が演説する中、誰もが長広舌になり、ブラジルのルラ大統領は制限時間の5分を大幅に破り、30分もお国自慢を続けた。司会役のベルルスコーニ首相が「1カ月たっても終わりませんよ」といさめ、旧ソ連時代の長い演説についてのジョークを長々と披露した。その次が、福田首相の番だった。

 福田氏は官僚がつくった演説文を読み上げ、「急いで」という司会の要望をまともに受け、4分半で切り上げた。その後の会見で福田氏は「前の人が30分も話したからね。早めに終えた方がいいと思って」と話し、目立ちたい、訴えたいというガツガツした感じが全くなかった。

 会場の片隅では官僚が同行の日本人記者を集め、会議内容を逐一伝えていた。大声一つあげない静かな黒服の集団は壁を覆う黒いカーテンのように静かにそこにあった。国際会議で必ず目にするこの光景を、私は以前、異様だと思ったが、そのときは、これが日本人なんだと、むしろほほ笑ましく眺めていた。

 国際会議で日本の代表には自分の言葉で語り、もっと目立ってほしいと思った時期もあった。でも数年前から、そんなに無理しなくていいと思いだした。場の邪魔にならず、誰とも対立せず、決して目立たない。それはそれで、一つの持ち味で、いいのではないかと。それで一目置かれればなおいいが。

 プレスリーのまねをしたり、ロン、ヤスと呼び合い米国の大統領と仲の良さを訴えたから何なんだと思うからだ。

 その話を「目立たないのも持ち味」というタイトルで新聞に書いたら、ローマ在住の作家、塩野七生さんから「面白かったわ」と電話があった。しばらく話をしていて、大方意見は合ったが、肝心の所が全く逆だった。

 彼女はダメな日本は、諸外国、特に西欧の古今東西から学び、その内向きな国民性を変えねばならないと思っている。だが、私はむきになって真似してもダメで、本来持っている美徳を探り、そこを磨くしかない、背伸びする必要はないという考えだ。

 そう思えば、日本の現状にいちいちカリカリしたりしない。「それって諦観じゃないの」と塩野さんに言われたが、その思いは私の中で年を経てさらに強まる。イタリアから戻って日本に違和感を抱かない一つの理由はそこにあるようだ。

(この項おわり)

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