自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

近未来が見えない(その4)

2012年3月号掲載

毎日新聞ローマ支局長(当時)/藤原章生

 
 20代の若者に幸せか不幸せかを問うのはあまり意味がない。就職など社会の状況がどうあれ、彼らの人生はまだ長いし、汚れていない。まともに働いていないし扶養家族もいないから、中年より幸せなのは当たり前なのだ。
 27歳の大学院生が「絶望の国の幸福な若者たち」(講談社)という本を昨年出版し、それを日本のメディアが大きく取り上げていた。そこには、こんな経済危機の時代でも若者は幸せを感じていることが不思議でならないという評者の目がある。だが、そういうふうに見る側の方がおかしいのではないかと思う。
 この本は2010年の内閣府世論調査に依って立っている。「現在の生活に対する満足度」について、20代の若者540人の54.8%が「やや満足している」、15.7%が「満足している」を選んだ。合わせて7割をやや上回るため、本を紹介するメディアは「7割が満足」と伝えた。だが、これは不正確だ。「やや」の方が圧倒的に多いのだから、「7割がまあ満足」が正しい伝え方だろう。
 この数字を「過去最高」と伝えたメディアもあったが、これは明らかな誤りだ。その前の年はやや低いものの、2年前の08年には72.3%が「まあ満足」しており、10年の70.5%より多い。若者の7割方はいつも、まあ満足しているのだ。だから、いまの若者がことさら幸福と論じること自体に意味がない。
 内閣府のこれまでの調査では、20代と70代以上の満足度が一番高く、次に30代と60代、そして40代、特に50代がどん底になるが、それでも5割台はまあ満足している。
 年齢を横軸、満足度を縦軸にするとV字を描き、その谷底の50代は、介護が必要になる親や子供の教育など家庭問題に加え、自分の肉体は衰え始め、仕事や人間関係でいろいろと悩みが深まるころで、何かとお金もかかる。満足度が低くなるのは、これも当然と言える。
 では、生きてきた時代で満足度が違うのかと言えば、大きな開きはない。調査が始まった1958年からの2011年までを見ると、多少のでこぼこはあるが、「まあ満足」派は5~7割台の間で緩やかに上がり続けてきた。オイルショック直後の1974年に急落し、バブル崩壊後の96年からじわじわと落ちたが、ここ数年盛り返している。つまり、どんな時代でも若者はまあ幸せなのだ。
 そんな当たり前のことを伝えた本がなぜいま話題になるのか。
 40代から50代の満足度の低い世代の視点が大きいのではないかと思う。運よく就職ができた自分たちでも、さほど幸福とは思えないのに、なぜいまの若者たちは満足できるのかという疑念があるのだろう。
 でもなぜ疑念を抱くのか。40代から50代の論者たちが、終身雇用を幸福の条件と考えているのではないだろうか。定年まで確実に働ける職場にいて、それなりの収入を得るのが幸福だとすれば、公務員が一番幸福なはずだ。その前提に立てば、いつ選挙に負けるかも知れない政治家や、芸術家、作家、自営業者ら本人の力量で収入や職が決まる人々は公務員よりも不幸ということになるが、そう言い切れるのだろうか。もしかしたら、そういう決めつけが、論者を中心とした中年以上の世代に広がっているのかもしれない。
 ♪就職が決まって、髪を切ってきたとき、もう若くないさと、君に言い訳したね♪、といった歌を聞いて育ったいまの中年たちは若いころ、就職は青春の終わりといった否定的なイメージを抱いてはいたはずだ。しかし、そこに安住するうちに、それこそが幸せの最低条件だと信じ込むに至ったのではないか。
 世論調査の問いは「生活に満足しているか」という実に漠然としたもので、それでその人の幸福をはかれるのかという疑問が残るが、その点に触れている論評を私は見なかった。
 だが、生活に満足しているから「幸せ」と短絡できるのだろうか。満足で幸せ、満足でも不幸、不満だけど幸せ、不満なので不幸せーーと、人には少なくとも4通りの反応がある。
 例えば、皇室や王室の人など、一生食うに困らない立場にあるのに、不幸な人たちは結構いる。アフリカの貧しい村に暮らす収入のほとんどない人の多くは生活に満足していないが、「それでも幸せ」と答える人がいる。
 幸福は地域、年齢、階層、収入で語れるものではなく、同じ境遇の人でもまったく感じ方の違う、相対的なもので、絶対評価はできない。一杯の晩酌ではないが、一日一度小さな幸せがあれば、人は幸福を感じるもので、現在の生活全般に満足しているからといって、幸福なわけではない。
 満足したら人生は終わりと言う人もいる。大学を放校になりチリに渡りサンティアゴで貿易業を営む私の友人は、「先がわかったら死んだも同じ」とよく言っていた。「未来が見えないから面白いんじゃないか」と。現状への不満や先が見えない不安が絶望につながることもあるが、それが希望を生むこともあり、すべてはその人次第だ。苦境に追い込まれるほどアドレナリンが増し、生き生きとする人もいれば、意気消沈し体調を崩す人もいる。アウシュビッツの生き残りの精神分析学者、ヴィクトール・E・フランクルは「夜と霧」で、その差は、好奇心だと説いた。迫害された自分がこの先どうなってしまうのか。そこに好奇心があり生き続けたと。
 人が生きる意味とも似て、人の幸福はそう単純ではない。なのに、「終身雇用ができなければ即不幸」と断定してしまう社会の単純さの方が、よほど異常なのではないだろうか。

(この項つづく)

 

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