自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

1948年の空気

2015年3月号掲載

毎日新聞地方部編集委員藤原章生(当時)

 

 1948年、昭和23年の東京はどんな風だったのか。時代の「空気」、もしそんなものがあるなら、それを知りたい。昨年暮れから、あれこれ探ってきたが、難しい。それは私が生まれる1961年の13年も前のこと。赤ん坊の頃は覚えていないから最初の記憶が3歳として16年前のことである。

 例えば今から16年前と言えば、1999年。容易に思い出せるし、今と大して変らない空気がそこにあった。そのころ私は南アフリカに住んでいて、2001年に5年半ぶりに日本に戻ったのだが、そのときの際立った記憶を一つ挙げれば、コンビニの前などで若者たちがベターっと座り込み、「ジベタリアン」などと呼ばれていたことだ。それと、渋谷の町を歩いていたら、ジベタリアンふうの、ダラーっとずり下げたジーンズを吐いた若者が、歩きながらおもむろに地面につばを吐き出したのをよく覚えている。ペッとではなく、ダラダラっと出したのを見て、なんだ? と私は思った。

 今から思えば、バブル崩壊後の就職氷河期で、若者たちが少し崩れていた時期なのかもしれない。ヤマンバと呼ばれる少女の姿も珍奇ではあったが、もっと一般に広がっていたのは、若者たちが歩きながら物を食べることだった。それ以前から、そういう人は時折おり、満員の駅のホームのベンチで弁当を早食いしている学生風の男が怒ったような顔をしてたのをよく覚えている。つまり、歩きながら物を食べる日本人は、その数年前まではほとんど見られなかった。

 今はそんな風景は当たり前で、電車の中で若い女性がバッグに手を入れ、そこからスナックかせんべいのようなものを直接口に運びバリバリ食べる姿を、「そんなに我慢できないのか?」と思いながら見つめることはあっても、驚くことはなくなった。だが、そのバリバリ食べる音の割に、女性がずいぶん無表情で、こちらの視線に気づいているのか、やはり怒ったような顔をして、作業のように食べ続ける姿に、彼女自身も結構、緊張しているところがあり、日常の食文化にまではなっていないように感じる。

 アメリカ女性がバス停で、ヌガーをくちゃくちゃ言わせながら食べている品のない姿ほど、堂に入っていないのだ。

 だのに、なぜ、そんなに無表情になってバリバリ食べなくてはならないのか。

  つい細部に入りすぎたが話を戻そう。要するに、こうした些細な習慣の変化はあっても、99年と現在とでは、さほど空気は変っていない。38歳の頃を振り返る53歳の私にはそう思える。バブル崩壊後、経済は低迷しており、見るものも、あるものも大して変わらないというのもあるだろう。

 一方、60年代前半の東京を知る私に、48年の空気がどうしても実感としてつかめない。そこにあるのはモノクロ映画の世界、例えば、黒澤明の「静かなる決闘」(1949年公開)の背景だ。軍医として南方に従軍した際、手術中の感染で梅毒をうつされ、戦後、一人で生きることを決める若い医師の苦悩。善と悪、理想と堕落の間を揺れ動く主人公の後ろに、焼け跡の人々がいる。

 木下恵介の「女」(1948年公開)に出てくる、やけになったチンピラにつきまとわれ、野っ原、闇市のような町を歩き続ける女。

 それは70年代に映画館で見た「日本映画名作選」の中の白茶けた遠い昔の世界。あるいは太宰治の「人間失格」の発表、そして作家自身が玉川上水に入水したのもやはり1948年だが、ついこの前のはずのその年が、どうしても自分の歴史の線につながらない。

 1948年。それは私の父親が身内に「工場(こうば)を手伝うなら大学に入れてやる」と誘われ、岡山から東京に出て来たころでもある。まだ砂利道で拡幅工事をしていた環状七号線。荷台に針金の束を載せ、オート三輪で疾走する若い父親。

 いつともなく話した昔語りの断片を組み合わせたイメージは、ずいぶんと埃のたつ普請中の東京で、古いフィルムの雨の降る画面のように、やはり遠い。

 40代だった父親が子供の私に語った「昔」は、考えてみればたった20年ほど前のこと。今の自分にしてみれば、30代半ばのこと、つまり、ついこの前の出来事なのだ。

 だがそれを聞く私はせいぜい10歳ほど。自分の人生の倍も長い20年も前、まだ生きてもいない時代のことなど、大昔もいいところだったのだ。今の私が100年前の話を聞くように。

 その時代を描いた、その時代に作られたあらゆる作品を読み、見ても、1948年が、61年生まれの私にどうしても近づかないのはなぜだろう。

 単に想像力の問題だろうか。それとも社会、人々の暮らしぶり、つまり富が凄まじい勢いで伸びたせいなのか。あるいは「社会の無意識」が、戦争を、ついこの前の過去を振り返るのを忌諱(きい)し、それが50年代、60年代にかけ、過去を彼方へ、あるいは無へと遠ざけようとした記憶のからくりなのか。

 私が今、書いている人物、森一久さん(1926~2010年)にとって、1948年は特別な年だった。広島での被爆で両親や兄ら身内5人を一度に失ってから3年。京都大の物理学教室を出て、湯川秀樹博士に薦められ中央公論に入ったのがその年の4月だ。

 上京したての森さんは八丁堀の木造3階の下宿に暮らし、空襲を受けなかった丸の内にある「丸ビル」5階にあった中央公論社に通った。いつも仕立てのいい背広を着てソフトを被っていた若き森さんが歩いていた町はどんなふうだったのか。彼はのちに、歴史を知る上で最も大事なのは時代の「空気」です、と語っていた。それが私にはなかなかつかめない。

 私の中で、森さんは今もまだモノクロをうっすらと着色した風景の中、日比谷通りの路面電車の脇を一人黙々と歩いている。

 

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