自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

オウム処刑の沈鬱

2018年10月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 この7月、オウム真理教の幹部ら13人の死刑が執行された。最初の7人が首を絞められた朝、ラジオでまず教祖の処刑を知った。嫌な気分になった。

 その日は金曜日で、ドイツの哲学者のインタビュー原稿が夕刊に載る日だった。ニュースを横目に起き上がると、すぐに会社に向かった。教祖の顔を思い浮かべながら、オフィスに着くと、処刑された者の数は増えており、夕刊の締め切りが過ぎた午後1時半には7人に達していた。

 その間、同期入社の上司と二言三言会話をかわしたが、深い話はしなかった。私は沈鬱していた。

 死刑制度に対する反発。遺族が極刑を求めるのはわかるが、それを当然と受け止める、ここ20年ほどで強まった風潮への嫌悪感は前からあった。一連のオウム事件を取材してきたジャーナリストらによる「未解明のまま終わってしまう」という嘆きもわからないではない。死人に口なし、「済んだこと済んだこと」と、新しい元号を前に忘却の闇に押し流そうという政府の、社会の、日本という国らしいムードに違和感を抱いたのも確かだ。

 だが、私の沈鬱はそれとは別のところから来ていた。あえて言葉にすればこうだ。

 あったかも知れない「もう一人の自分」を抹殺された、あるいは自分たちの青年時代を消された嫌な感じ。

 誘われたとしても、私はオウムには入らなかっただろう。だが、1980年に大学に入った私には、若者たちの動機がぼんやりとわかる。教室で机を並べていた一人が、もしくは、サークルの仲間が「俺、ヨガ始めたんだ」と、すっとあのグループに入ってしまってもなんら違和感はなかった。

 実際、私が親しくしていた2歳上の先輩はオウムの初期、80年代の半ばに入信している。彼は大学での勉強や、まだ巷に行き渡っていなかったころのコンピューター技術など、あらゆる面でものすごく優秀な人だった。大学院を出ると20代半ばですでに工学部の助手となっていた。

 その彼がある日、出奔した。オウムがまだ犯罪に手を染めていなかった無害のころだ。私の仲間には学生時代に統一教会に入った者が3人おり、また、4歳上の先輩は「幸福の科学」に入った。統一教会の一人を必死になって止めたことはあったが、オウムの彼は、気づいたら姿をくらましていた。

 10年後に事件が起きたとき、彼は科学班にいて、週刊誌に顔写真が載ったこともあったが、実行犯にされるまでの幹部ではなく、検挙を免れた。

 私の一回り上、団塊の世代の作家、関川夏央さんがこう話していた。

 「それぞれは心のきれいな、いい奴ですよ。僕らは大人だったから、滑稽な集団としか見えなかったけどね。あれが自分を預けるにたる集団と考えるところに深い落差がある。虚ろだけど豊かな時代を無にしちゃったなあっていう感慨があった」

 自我がしっかりしていれば、あのような誇大妄想の奇人に自分の全てを預けてしまうことはなかったはずだ、という不可解さが関川さんにはあった。つまり、80年代にカルト的な組織に入っていった60年代生まれと、48年前後に生まれた団塊の世代の間にははっきりとした断絶があったと。

 結果の甚大さは別にして、団塊には学生運動の象徴、連合赤軍がおり、下の世代には宗教活動の象徴としてオウムがあった。そこに入り込む動機に大きな差はなかったのではないかと私は思う。

 差があるとすれば、経済力や就職の機会など育った社会環境の違いだろう。70年と80年の違いは、中身というより程度の差だ。70年の空気の性質をより強めたのが80年だった。一言で言えば「豊かさ」「明るさ」、そして、それと裏合わせのようにある「管理」だ。

 お前はこう生きろ、こうせよと具体的に誰かが管理したわけではない。世間のなんとなくの空気だ。「まあ、大企業に入れば安定した人生を送れる」といったムードだ。そこに批評的な目を持ち得なかった者は、例えば「気まぐれコンセプト」的な大手広告代理店を目指し、あるいは商社、メーカーに身を没した。「一方の連中は踊って生きていくみたいな人生を選んだわけですよ」(関川さん)。

 だが当然ながら、20人に1人くらいの割合で「進取の気性」を持った若者がいた。「世の中、このままでいいわけがない」「何かおかしくないか。このまま黙って就職していいのか」「社会自体を変えなくちゃダメなんじゃないか」と、妙なほどナイーブで純粋な動機からカルトに入った者が相次いだのが80年代だった。30代の作家が「孤独が彼らを走らせた」と知った風なコメントをしていたが、明らかな間違いだ。

 何事も疑う癖のあった私は、カルトに誘われなかった。関川さんが言う「真面目で心の硬い若者」になる才能がなかった。ただし、「世の中おかしくないか」「社会をなんとかしなくては」という彼らの動機に近い感覚を私自身も確かに抱いていた。そして、その解答方法をいまだに見出せないでいる。

 13人が抹殺されたのは、単に彼らの生命が奪われただけでなく、80年代の若者に巣食った「社会への違和感」までもが一瞬にして無きものとされてしまった気分になったせいだろう。沈鬱はそこからきていた。

 

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