2010年2月号掲載
ほどなく腕の力は尽きる。最後は握った両手がずるずるとロープを滑りだし、手の平を摩擦で焼きながら一気に墜落し、頭が谷底に激突する。
火事場の馬鹿力というが、人間の能力はかなりのものだ。「確実に死ぬ」と思ってからの恐怖の数分間、頭の中をあらゆる考えが巡りだした。テープを早回ししたように、とてつもないスピードで。
「死に哲学的なことなど何もない。深夜、テレビのスイッチを切ったとき、ブラウン管の光がぷつっと消えるように終わるんだ」。中学時代から一緒に山に登った友人が北アルプスの屏風岩から戻り、そんな葉書をくれた。彼はすぐ脇で死んだ仲間を見た。そして、長い登山の末、麓の湖に飛び込んだ後輩が一瞬にして心臓まひで死んだのを目にし、そう感じたらしい。
死に瀕した私は彼の虚無的な言葉を思い出し、叫びたくなった。しかし、恐怖で声が出ない。体中で叫んでいるのに、誰かに喉を締めつけられたように、声が音にならない。
そうか、人はこんなふうに死ぬんだ。でも早すぎるじゃないか。これで終わりだなんて。
「今死んでしまうなんて残念だ、せっかく、背広も作ったのに、もうだめだ」
沢田義一の最後の言葉も頭をかすめた。北大山岳部の沢田は1965年3月、日高山脈の札内川十ノ沢で雪崩に埋まり、後輩ら5人と逝った。同じ山岳部だった私は19歳の夏、部室にあった手垢だらけの遺稿集「義一」を読み、彼が雪の下でつづった遺書に心打たれた。沢田は大学卒業前の最後の登山で雪崩に埋まった。スプーン一つで雪を掘り進むが光は見えず、地図の裏に言葉を残した。
整った字は衰弱と共に乱れ、最後は「お母さん……、背広も作ったのに、もうだめだ」という一文で終わる。そんな段になっても就職に触れているところが妙に生々しかった。
宙づりになったとき、私は27歳だった。沢田の言葉が出てきたのは、おそらくその登山が自分にとっても大きな転機だったからだ。
1986年、中米旅行から戻った私は、住友金属鉱山に就職し、鹿児島の北部、伊佐郡の菱刈町(ひしかりちょう)の金鉱山で働いていた。旧財閥系の会社のせいか、大卒というだけで重用され、重機担当職場長というポストを与えられ10人ほどの部下がいた。
東京のシステム部でプログラミングを叩き込まれ、色々と資格をとらせてもらい、海外駐在も約束されていた。同じ分野の技術者は数年に一人しか採らないため、将来は安定していた。あの先輩が課長になった時、自分は係長。先輩が事業部長の時、自分は部長……と。だが、20代の私はそれが嫌だった。そして、友人の一言で、突然、転職を決めた。
「お前がエンジニアになると思わなかったなあ。お前、ジャーナリストになると思ってたよ」。5月の連休、鹿児島から東京に帰った私に、友人が言った。東京・目白の居酒屋だった。新聞と言えば、山の記事かテレビ欄、子供のころから家でとっていた読売新聞の「人生案内」を熱心に読んだくらいだ。
「ジャーナリストって、新聞記者か?」「ああ」「何で、俺が」「いや、なんか、そんなふうに思ってよお」。私たちは中学時代から小説だけは読んでいた。そして読んだ本について思ったことをポツリポツリと語り合った。だが、新聞の一面に出ているような難しい話はしなかった。記者なら、司法試験を目指していた彼の方が向いていた。
「俺、文章なんて書いたことねえよ。山の報告書くらいで、あとはリポート、それと会社の議事録とか。新聞も政治とか経済は面白くないだろ」「お前、理系だしな。でも、そう思ったんだよな。何でかなあ。きょう、馬場(ばば)で映画観て、ウォーターゲート事件の話で、ジャーナリストが出てきたんだけど、あれかなあ……。さっき、お前のそのジャケット見たとき、あのジャーナリストと同じ色って思ったからかなあ」「なんだよ、それ。くだらねえ」
そして、しばらく別の話をして別れた。私は赤い顔をして、空(す)いている夜の山手線に乗り、親がいる足立区に帰った。親は寝ており、私は静かに布団に入り、特に何も振りかえらず寝た。
翌朝のことを鮮明に覚えている。目覚めると光がまぶしく、私は「そうか。そうだった」と跳ね起き、新聞記者になると決めていた。理屈ではなかった。なりたいというのとも違う。すでに、なると思っていた。その日は恋人とお茶ノ水の喫茶店「穂高」で待ち合わせていた。彼女の前に座り、黒縁メガネの店主にコーヒーを頼むと、「俺、会社、やめることにしたわ」と切り出した。「え?」。彼女は驚いたようだったが、すっかり頭の飛んでいる私には、そんなことは眼中になかった。「やめて、どうするの」「新聞記者になる」「新聞記者?」「ああ」「なんで」「何でって、うん、何でだろう?」
彼女と私は2年ほど遠距離の交際を続けていた。主に手紙、そして時折、電話で話をし、年に何度か会っていた。そんな距離を解消しようと、「東京から鍋釜持って鹿児島に行く」と言い出した彼女は、その前の日に仕事を辞めたところだった。ところが、その当の相手が「仕事をやめる」と言い出した。
宙づりになった私の頭の中では、こうしたエピソードが瞬時に交錯していた。結局、5月からのにわか勉強で秋に新聞社に受かり、私は11月、鹿児島の会社を辞めた。そして、九州を離れる記念にと、「日本の難ルート」の一つに数えられる屋久島の宮之浦川に来ていた。
危険は常に曲がり角にひそんでいる。何もかもがうまくいき、思い通りになる。この山旅が終われば、鹿児島市の港に停めてある車で東京に向かう。そして自分の道は大きく変わる。だが、それを目前にして、死ぬなんて、まるで絵に描いたみたいじゃないか。
「背広も作ったのに」という言葉は出てこないが、「何てことだ」という思いがこみ上げ、私は息もできず唸り声を上げ続けた。=この項つづく