自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

信じる人にひかれて(その9:最終)

2011年1月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

    奇妙な写真を撮ったり、行く先々で宗教的な人に出会い、少しずつだが、信じる人々にひかれるようになった。そして、彼らが信じている神様とは何だろうかと考える。
 しかし、結論から言えば、私にはどうもその才能がないようなのだ。フロリダのジムはいまも「毎朝、お前のために祈っているよ」「神はお前に言葉をかけているよ」とメールを送ってくれるが、「宗教的な体験」と呼べそうな決定的なことが起きない。
 私の家によく来る、キリスト教徒のダニエレは「体験など意味がない。大事なのは聖書を読むことだ。そこに全ての答えがある」と言うが、聖書も新約を全部読んでみたものの、どうにも、身が入らない。この前など、18歳の娘が「お父さん、まだ聖書読んでるの」と言うので、「読んでるよ、ほら」とマークしてあるページをめくり、幾つか読んで聞かせると、「お父さんが読むと、お笑いみたい」などと弟と二人で大笑いしている。
 どうにもこうにも、信じる人に成り切れないのがもどかしい。
 一度、こんなことがあった。2003年のイラク戦争を伝えるため、少しずつ力を強めるイスラムシーア派を私は取材していた。それは昼食前の暑い朝だった。ナジャフという町の一地区にあるモスクで、私は聖職者に会った。

 イマムと呼ばれるその地区のトップで、シーア派の指導者、アリ・シスターニ師の代理をつとめる宗教指導者、モハメド・ロダ・ゴライヒ師だった。

 見た感じは60歳くらいだが、当時の私より数歳上の49歳だった。サダム・フセインの政権時代に、ひどい拷問に遭い、脱獄して長くイランに亡命していた。シーア派の知り合いによると、彼が老けているのは、拷問など酷い体験が原因ということだった。
 イスラムの聖職者は年功序列と思っていが、そうではなく、「霊性」、つまり霊的な性質が高いほど地位が上がる。このため彼が亡命先のイランから戻ると同時に、それまでのトップだった60代の聖職者がその座を彼に明け渡した。彼はそれだけ、「霊性」が高いらしく、私の通訳のシーア派の男はインタビュー中、感動して涙ぐんでいた。霊性とは何だ、と聞くと、賢さだけではなく、感受性や洞察力、あらゆることを見通す能力のことで、より神に近い存在だと、わかったようでよくわらかない説明を通訳の男はした。
 一通り政治の話をしたあと、彼にこう聞いてみた。「ところで、あなたにとって神とはなんでしょう」
 イマムはムムっと頬を引き締め、こちらの目をじっと見た。それはわずかな時間だったが、白い髭に覆われた大きな顔のその鋭い目がずいぶん長く、こちらを見ていたような気がする。
 彼はそれまでの硬い雰囲気を急に和らげると、こう切りだした。「いや、それはよく聞いてくれました。ありがとう。そうですか。神ですか。それは私が毎日考え続けていることです。私自身にとって一番大事なことです。そうですね、こんな話でどうでしょうか。例えばですね。あなたが、13歳のとき、海に行って溺れたとしましょう」
 このときは彼のアラビア語を通訳が英語に訳していた。彼は一言一言ゆっくりと語り、通訳がそれを逐一、私に伝え、私はその都度「はい」と返事をした。
 「あなたは大きな波を被って、溺れてしまう。そして、もうダメだと思う。もう助からないとあきらめる。急に体が冷え、水の中にどんどん沈んでいく。もうこのままでは助からない。あなたが観念したとき、別の大きな波が来て、あなたの体は水面に浮かび上がる。その力であなたは助かり、浜にたどり着く」
 「はい」
 「それが神です。その力が神です」
 私は震えながら聞いていた。というのも、彼の話は間違いなく私の13歳の夏の体験そのままだったからだ。
 前に、屋久島の宮之浦川の側壁で宙づりになり死にかけたことを書いたが、私は13歳の夏にも茨城県大洗海岸で遊泳禁止の浜の沖合で溺れてしまい、危うく助かったことがあった。
 「それはそのまま私の体験です。なぜわかったんですか」などと聞く余裕がなく、私はそのまま帰ってきてしまった。
 通訳に聞いてみると、イラクでは普通こんなたとえ話はしないという。暑いことは暑いが人々が泳ぎに行くのは珍しいし、聖職者が神を語る際、そんなたとえ話はまずしないそうだ。偶然にしては、できすぎている。
 仮に彼がその独特の霊性だか直観力で、私の体験を知りえたとして、なぜそれがわかったのか。占いのようなものだろうか。私の体から何かが出ていて、それを彼が何らかの方法で受信し言葉に置き換えだろうか。仮にそれができたとしても、そのメカニズムがどうしてもわからない。
 信じる人々にこの話をすると、彼らはそんなメカニズムに関心を向けない。そもそも、彼らはそういうからくりがわかった上で神を信じ始めたわけではないのだ。彼らの多くは、そんなことは当然あると最初から思っている。
 そして、「まだわからないのですか」という顔で私の話を聞いている。
 聖書にはパウロたち12信徒に向けられたキリスト言葉、「まだわからないのですか」が何度も出てくる。私はまさにその一人、まだわからない人間なのだ。
 ときおり、神様に祈ってみたりもする。しかし、本当に神がいると信じて祈っているのとは違う。いるかも知れない神に祈っているのだ。例の変な光の写真と同じく、メカニズムがわからなければ認めるわけにはいかない。
 信じる才能がないとは、そういうことだ。似たようなことがコロンビアでも、ハイチでもあったが、もっと決定的な体験がほしい。決してあきらめたわけではないのだが。

 

=この項終わり

 

お知らせ:

2023年3月22日(水)18:30~20:00 新著について講演します。東京・神保町の会場とYoutubeで同時配信しますので、ぜひお聞きください。

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