自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

何かにとりつかれた顔

2012年9月号掲載

毎日新聞夕刊編集部記者/藤原章生(当時)

 

 人は死に肉迫すると、何かにとりつかれた顔になる。

 先日、24年ほど前の写真が出てきた。私は1993年から現在まで海外と日本を何度も往復してきた。優に10回をこす引っ越しのたびに物を捨ててきたが、古い写真やネガ、メモ帳、手紙など、どうにも捨てられないものばかりが沈殿してきた。

 写真は、東京の亡父のもとに預けた段ボール箱から出てきた。この春にローマから日本に戻り、船便が届いたまではいいが、大量の本を収める本棚がない。新たに買い足すのも、本を捨てるのももったないと思い、父の古いアパートに置いておいた本棚を取りに行くことにした。そのアパートは工場を経営し羽振りの良かった父が昭和40年代の末に建てたものだが、自殺者が出たのに加え、結局のところアパート経営など人からお金をとるという面倒なことができない父の性分から、長年放置され、いまは、60代の男が1階で朽ち果てた自転車屋を経営するだけになっている。

 2階部分がまるまる空いているので私はそこに、妻が結婚したときに持ってきた本棚を置きっぱなしにしていた。 ほこりだらけの部屋から本棚を持ち出すと、床に段ボール箱が8つほどあった。開けてみると、古いレコードや登山用具、アフリカの調度品とともに、写真と手紙が大量に出てきた。写真を持ち帰り、一枚一枚見ながら捨てていると、まったく見覚えのない写真が出てきた。 1988年11月に屋久島の宮之浦川に行ったときのものだ。

 このシリーズ「自分が変わること」ですでに書いたが、私はこの川の側壁から懸垂下降中、宙づり状態になり、ザイルを握る腕力が尽きると同時に50メートル以上も下の川床に墜落する恐怖を味わった。写真は、ほんの偶然が重なり生還した直後のものだった。ザイルパートナーの鹿児島県人、米丸君に私は自分が陥った状況を詳しく話さなかった。「どうした?」と血相を変えた彼に問われても、「いや、大したことない」と言ったきり、ひとりで先へ急いだ。死にかけるほどのミスを犯したことが恥ずかしい、というだけではなかった。なぜか、そのとき、人に言ってはいけないような気がしたのだ。

 そこからさらに側壁を進み、ようやく深い川底に降りたとき、私のただならぬ様子を気にかけていたのだろう。米丸君は川底の滑(なめ)の上で呆然としている私の写真を2枚撮った。写真のバックには、これから2人でへばりつくことになる、かなり難しそうな滝が見える。2枚の写真は、米丸君が私に送ってくれたものだが、私はその写真の絵柄をすっかり忘れていた。一度見れば大体の写真は忘れないのにその写真のことは完全に忘れていた。やはり私はあのときの恐怖を記憶から消し去り、封印しようとしていたのだ。無意識がそうさせたのかもしれない。

  そのときから24年がすぎていた。写真の中にいる私はいまの私よりも老けている。目に力がなく、鼻の両脇のしわは、まるで突如何者かが刻みつけたように不自然に深い。そして、諦観、放心、錯乱をないまぜにしたような表情が顔全体に表れている。

 私はその後、傍から見ればもっと派手な形で死に近づく経験をしている。アメリカのテキサス州の高速道路で、助手席に乗っていた車が側壁に激突し転がりながら対向車線に飛び出す大事故に巻き込まれたり、強盗やゲリラに頭に銃を突きつけられたり、大暴動に巻き込まれりといったことだが、いずれも、屋久島ほどの戦慄には至らず、心の核は妙に落ち着いていた。

 屋久島の写真が見つかった6月、私は森禮子(れいこ)さんという俳人に会った。2010年1月に亡くなったご主人、森一久さんの評伝を書くため、神奈川県の自宅を訪ねた。森一久さんは20歳の夏、広島で被爆し父母ら家族5人を失くした。森さん自身もすぐに白血病にかかり、白血球が通常の10分の1まで下がり、医者にも「もう駄目だ」と見放され、身内は葬式の相談をしていた。ところが、じわじわと活力が戻り命をとりとめた。湯川秀樹氏の弟子だった森さんは、広島から京都に戻り京都大学を卒業すると、中央公論社に勤め、原子力導入に反対する活動の中で、「内側から監視したらどうだ」と誘われ、日本の原子力開発の中枢で活躍することになる。「被爆者の自分が核を見ていかなければ」という思いからだった。 晩年、ずいぶんと私に親しくしてくれた森さんのことを書こうと、禮子さんにいろいろと話を聞いたとき、こんなエピソードが強く響いた。

 日本の勲章をすべて断った森さんが、金泳三大統領に請われ、韓国の石榴(ざくろ)章を受けた授賞式でのことだ。韓国の人に「森さんはいつもお若いですね。どうしてなんでしょう?」と聞かれたとき、森さんはすかさずこう答えたという。「原爆の時に生まれましたから」。大正15年生まれの森さんは20年ほど年をサバ読んだことになるが、「半ば本気で、原爆の直後に生まれたと思っていたのではないでしょうか」と禮子さんが話した。つまり、あの夏、原爆直後に一度死んだと。

 そんなことはあり得ない。生命はどれだけ死に近づこうと、一度その細いラインを越えれば戻っては来られない。

 ただ、大事なのは、森さん自身に「死の底から舞い戻った」という自覚があったということだ。あるいは「自分は一度死んだ」と信じていた。 屋久島の写真を見て私は思った。私はあのとき、はっきりと、死に近づいた。死んだと言えば嘘になる。だが、それに近い体験をした。これを封印してはいけない。森さんのように強く自覚して生きていこうと。  

 

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