自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

死を前にした感覚(その3)

2010年3月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 屋久島はうっそうとしている。私が宙づりになった谷の岩壁も、ロープで下りはじめたときは谷底が見えなかった。それで気を抜いたのだ。普段なら首にぶら下げている細いロープの輪、シュリンゲを忘れ、おまけに、外して降りるはずのリュックの腰ベルトも、きつく締めたままだった。

 支点にしていた木から5㍍ほど下ったところで、優に50㍍も下に谷底が見えた。しかも岩壁は反り返り、降りて行くときに岩に足をつけることさえできない。完全に空中にぶら下がった状態だ。本来なら、シュリンゲを自分の上のロープに巻きつけ、登り返す所だが、そのシュリンゲがない。片手でロープを握り、リュックの雨蓋(あまぶた)から何とかシュリンゲを出そうとしたが、うまく開かない。せめて、重荷を軽くしたいと、リュックを肩から外し、下に捨てようとしたが、ベルトが腰に食い込み、どうしても外れない。

 ついに片手では支えられず、両手をロープから離せない状態になり、あとは落ちるだけとなった。生き残るあらゆる可能性を探ったが、無理だった。

 「どうしたー」「どうしたー」。異変に気づいた仲間の米丸君が、支点にしてある木の上から叫び続けていた。「だめだー」「もう、だめだ」。そう答えることで、もしかしたら助けてもらえるとも思ったが、声が喉でつかえ、音にならない。恐怖で声が押しつぶされたのだ。それに、瞬時の計算で、彼に私を救いだすことはできないとわかった。私の体重にリュックを合わせれば80㌔を超える。細い木の足場で、すべるロープを引き上げることなどできるはずがない。恐怖はもう一段深まった。

 あらゆる想念がうず巻き始めたのはその時だ。それは、ほんの2、3分、いやせいぜい5分だろう。

 観念などできない。ただ、この後、どうなるのか。自分はどんなふうに死ぬのか。どんな体勢で落ち、谷底にぶち当たるのか。そんな事を考えていた。そして、祈る思いで、「もう死ぬのか」「ああ、死にたくない」という言葉が頭を交差した時、突如、「お母さん」という言葉が出てきた。

 自分でも不思議だった。「なぜ、お母さんなんだ」と思った。中学時代から登山のたびに反対し、家を出る私を心配そうに見送っていたからか。こんな死に方をして、彼女がどれほど苦しむか、そんなことを一瞬考えたからだろうか。父親でも恋人でもない。出てきたのは「お母さーん」という声にならない叫びだった。

 すると、それまで死角だった自分の右側の薄緑の葉が目に入った。その葉の向こう、1.5㍍ほど先に、直径10㌢ほどの木が側壁から水平に伸びているのが目に止まった。「あれに飛びつこう」と思った。だが、両手を離した途端、落下する。飛びつくなど、とても無理だとわかった。最後の力を振り絞り、右手をのばそうとしたが、すでに腕力はつき、左手だけでロープを握る力はない。仮に右手を伸ばせば、同時に墜落する。それに、とても届く距離ではない。

 「やはりだめか」。泣きそうになりながら、もがいていると、「もしかしたら」と一つの考えが浮かんだ。体を左右に揺らせば、5㍍上の支点を中心にロープは振り子のように揺れ、手が木に届くかもしれない。

 私は2度、3度と体をゆすった。そして木に飛びつこうと思った。すると、突然、体がフワッと軽くなった。まるで誰かにリュックごと背中を支えられたようだった。腕の筋肉が少し楽になった。そのすきを見て、私は右手をロープから離し、首の後ろにある雨蓋のチャックを開け、シュリンゲを取り出した。それを目の上にあるロープに二重に巻きつけ、腰のベルトに着けてあるカラビナにかけた。その時のカチッという音が、救われた瞬間だった。「助かった」「生き残った」。まるで生まれて初めての経験のように、私は大きく息を吐いた。

 体が軽くなったのは、体をゆすったとき、リュックの横側がうまく木に引っ掛かり、荷重が横に分散されたためだった。

 「どうしたー」「どうしたー」。深い水の底から水面に出たときのように聴力がよみがえった。米丸君の必死の声が耳に飛び込んできた。「大丈夫だ。なんでもない」。私はしっかりした声で答えると、もう一本のシュリンゲをロープに巻きつけ、過去に何度も試した脱出の要領で、5㍍上の支点にたどり着いた。

 無精髭の薩摩っ子、山仲間の米丸君の顔はこわばっていた。「大丈夫ですか」と聞かれ、助かった喜びより、恥ずかしさが先に立った。「ここはやばい。底までザイルが届いてない。場所を変えよう」。そう言うと、私は黙々とロープを回収した。「もうやめよう、こんなことは」と一瞬思ったが、「大したことじゃない」と打ち消し、呆然としながら側壁を登り始めた。

 なぜ、「お母さん」なのか。私は恥ずかしかった。なかったことにしようと思った。その後のことはほとんど記憶にない。半死半生のような、自分が道端の小石になったような気持ちで風景の中にいた。歩いている自分をもう一人の自分が見ているような感覚。どこにテントを張ったのか、何を食べたのか、何を話したのかも憶えていない。死にかけたことは米丸君には話さなかった。

 翌朝、霧の源流を目指すと、辺りに鹿の群れがいた。行く手と左右に、私たちに付き添うように飛び跳ねていた。

 長い下山路の最後はトロッコ道を歩き、千年杉を見上げ、海辺にたどり着いた。右手を上げると東京から来たという一人旅の女性が私たちを車に乗せてくれた。「一緒に観光しませんか」。言われるままに、島の小さな岬に立った。誰もいなかった。海を見ると、屋久島の先の小さな島に向かうポンポン船が見えた。

 私は一人はずれ、それをぼんやりとながめた。「鹿児島の離島の屋久島、そのさらに離島に船が行く」。そう思ったとき、すーっと視点がはるか上空に上がり、小さな島、その外れの芥子粒のような島、二つの島をはるか上空、大気圏を越えた宇宙から見ているような錯覚に陥った。島と島の距離は消え、それは小さな砂粒のようになった。その砂粒の中にある一人ひとりの暮らし、どこまでも小さな人の生を、ずっと上空から見ているような気がした。

 すると、涙が流れてきた。思わず声を上げそうだった。嗚咽という言葉がふさわしかった。

 死にかけたことはもう考えなかった。ただ、どうして涙が出るのか、と思った。=この項つづく