自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

死を前にした感覚(その1)

2010年1月号掲載

毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時)

 

 2005年の11月、父が死んだ。私は死に目に会えなかった。私はそのころ、メキシコに暮らしており、日本からの電話で危篤を知った朝、国際会議の取材で南米のチリに向かった。日本の首相が中国の国家主席と何年ぶりかで会談するというニュースだったが、私にはどうでもいい話だった。それでも、あえてチリに向かった。一つには「親の死に目に会えないのが新聞記者」という、以前誰かから聞いたセリフが頭にこびりついていたからだ。浪花節的なくだらないこだわりだ。それだけ、私は組織や職業にとらわれていたのだ。

 18歳で家を出てから、父とは一度も暮らしたことがない。死ぬ前だけでも、仕事を投げ打ち、傍にいれば良かったと、いまでも思う。私がいなくたって仕事も世界も回るのだ。

 危篤を聞いた電話で、「お父さんの意識がね、もう……」と母は随分弱気な声を出した。まだ数日はもつだろうが、昏睡から覚めることはないと思い、長く言えなかったことを思い切って母に伝えた。「意識があったら、こう言ってくれる。『お父さんのこと、昔からずっと好きだった、小さいころからずっと尊敬してた』って」

 彼女はその足で病院に向かい、昏睡に入り始めた父にそれを伝えた。病室から集中治療室に運びこまれる父に母が泣きながら伝えたが、父は返事をしなかった。これは感情的な彼女の思い込みも強いだろうが、彼女によれば、父は伝言を聞くと、首を上下に動かし、完全に昏睡状態に陥ったという。

 チリの首都サンチャゴに着き、家に電話を入れたが、誰も出なかった。携帯電話につながると、「昏睡が続きあと1日、もつかどうか」という話だった。私はそのときになって、ようやく帰ろうと思った。チリは日本の真裏である。結局、乗り継ぎで30時間もかかる飛行機に乗る前に、父は息を引き取った。

 その2カ月前、胃に末期がんが見つかった父を訪ね、私は1週間ほど帰国した。

 「アキオー、お父さんが、がんになるなんて、思いもしなかったよ」

 埼玉県の獨協大学病院の控室は静かで、誰も果物ひとつ口にしていなかった。食べられない患者を気遣ってのことのようだ。外科手術を前に絶食状態の父は、点滴の移動器具を片手に明るい調子でこう言った。

 「まあ、天命だと思って、諦めてるよ」

 天命? その言葉に引っかかった。

 そんな風に思えるのだろうか。なすがままに、水のように、風のように、天の、運命のままに……。違うんじゃないか。

 「そういうんじゃ、ないんじゃないかな」。黙っていればいいものを、私は反論した。

 「年齢とか、個人差はあるだろうけど、死ぬときは、最後までもがくんじゃないかな。いや、もがくというより、多分、人間は最後まで可能性を探すんじゃないかな。生き残る道を。自分でそうしようというんじゃなくて、もう本能みたいなものじゃないのかな。だから天命だ、諦めたと、静かな気持ちになっても、いざ死に向かうときは、やっぱり、こうすれば助かる、ああすれば生きる可能性があると、結構冷静に探るんじゃないかな」

 父が納得したのかわからないが、笑みをたたえて聞いていた。

 そんなことを思ったのは、私は過去に事故で3度、死にかけているからだ。雪渓を滑落したとか、岩登りで背中から地面に墜落した、あるいは強盗に遭い銃を頭に突きつけられ地面に突っ伏した、といったことは何度かある。だが、そうした経験は浅い方で、それよりももっと死に近い、間違いなく死ぬという恐怖、異常なほどの極限状態に追い込まれたことが3度あった。

 直近の体験は1988年の11月のことだ。恐ろしい記憶は今もよみがえる。「大したことない」。死なずにすんだとわかったとき、そう言い聞かせ、やり過ごしてきたが、それから20年経つ今も、あのときの感覚をリアルに思い出す。「ああ、だめだ」。そう思ったときの記憶は、鳥肌が立つほどの悪夢だが、同時に体が宙に浮くような陶酔感を伴っている。あの感覚がよみがえるのは、疲れきった夜の寝入りばなだったり、目覚める前の朝夢だったり。いずれにしても、いまも唐突にやってくる。

 そこは屋久島の渓谷、宮之浦川の側壁だった。私はそこで宙吊りになっていた。

 切り立った岩場は垂直というより、むしろそり返っており、私の体はロープ一本で宙に浮いていた。

 本来なら、そんな事にはならないのに、不注意が重なり、懸垂下降をしていた私はロープをつかむ両手の握力だけで60キロの体重と、20キロを超すリュックを支える状態に追い込まれた。

 腕力が限界となり、手を緩めれば一気に墜落し、50メートルは有にある谷底の岩盤に激突する。

 それは数分の出来事だ。もう腕力がもたず、腕と手があまりに痛くなり、本気で死を覚悟した。いや、覚悟とは違う、次の瞬間の自分、死ぬ自分が目に浮かんだ。

 深い森で、ひとり、もがいている。はるか下には錆(さび)色の岩盤。硬い谷底が見える。その赤黒い岩、鉄工所の錆びついた鋼(はがね)のような岩に、滝からの水しぶきが、シャーっと音を立て降り注いでいる。

 間もなく、私の脳は吸い込まれるようにあの岩に激突し、破裂する。手で止めようにも、止まるはずがない。脳が破裂したとき、自分は何を見るのか。激突の瞬間の、グシャっという音までが、頭の中で響いていた。そしてそのときの痛さ。

 リュックの重さで、頭が下、つまり逆さ吊りになった私は、その目で谷底を見つめた。腕の力はあと数十秒、せいぜい一分ももたない。もう脱出する手立てはない。あと数秒、いや、だめだ。ああ、もうだめだ。

 「確実に死ぬ」「観念した」という言葉はあとからついてきたように思う。その時点の私はただ苦しみ、恐怖で声も出ず、まともに息もできず、ただ、「うー」という唸り声を上げていた。

 谷底の赤黒い岩、そこに激突する自分の頭のイメージが今も妙に生々しい。

 「天命」を語る父にすぐさま反論したのは、その感覚を思い出したからだ。

=この項つづく