2014年7月号掲載
才能だろう。赤瀬川さんは物を書き始めて5年で、小説に取り組みわずか2年で芥川賞を受けた。尾辻克彦名で出した「父が消えた」という作品だ。
克彦は本名で、尾辻は父方の本家の名字だそうだ。雑誌に物を書き始めた1975年以降、本人が「純文学」のジャンルと決めていた作品をこの名前で出しており、本の数は20を数える。
2007年の暮れ、確か向島を散歩していた時、「尾辻克彦の名ではもう出さないんですか。というか、僕はああいう小説をもっと読みたいです」と話しかけたことがある。人見知りなのか、まだ知り合って浅い私を、はにかんだ顔でちらっと見た赤瀬川さんはこんなふうに答えた。「いやあ、もう、そういうのはねえ。好きなことを書いていられたのは、牧歌的な時代というか、どうもそういうのはねえ」
91年に出した短編集「出口」は、ホテルの一室で。さて何を書こうかと思い立ち、所在なげに一人腕組みをしたり、頬に人差し指を当て思案する自分を描写する自意識過剰の話など、私は面白く読んだのだが、あまり売れなかったらしい。
売れなければ、次の注文は来ない。必然、「路上観察」や「老人力」など編集者や友人とのプロジェクトものを優先する。「牧歌的」とは、小説を試みた時代への懐かしさに加え、「好きなことだけを書き続けられるわけではない」という戒めに聞こえた。 それでも「父が消えた」をいたく気に入っていた私が、「ああいうのが読みたいですね」と言いつのると、赤瀬川さんはうれしそうだった。
小説はこう始まる。
<三鷹駅から東京発の電車に乗ると、ガタンといって電車が動いた。電車はどんどん動くので私は嬉しくなった。こんなこと、まったくいい歳をしてばかな話だけど……。でもいつもと反対の電車に乗ると、よくこういうことがある>
反対に向かうこと、それが旅なのだ。私はこの冒頭をそう記憶した。
面白いのはこの後だ。
語り手はひとりあれこれ考え始める。旅行の楽しさは、乗物が動くこと。子供のころは、荷馬車のうしろにこっそり飛び乗った。
<私にはそれが旅行のはじまりだったと思う。自分の足を動かさなくても、乗っている物がひとりでに動いていく。それが実に楽しいのだ。
「でも馬車なんて、見たこともないだろうね」
私は同行の馬場君にいってみた。馬場君は私が東京行きの電車の神田で降りて行く学校の二年前の、生徒だった。いまは雑誌社に勤務している。今日はお休みである。
「馬車はね」
馬場君はむつりと答えた。馬車はねといった「ね」のつぎに、見たことないですよというのがつづくのだろうが、馬場君はそこはもう当然のように略して黙っている>
私はここで「むふっ」と笑える。そうなんだ。みな同じなんだとうれしくなる。頭で考え、ひとりの世界に入り込んでいるとき、ふと近くに人がいることに気づく。あ、そうだったと。
それで、気をつかって、自分の思考の流れを相手も当然わかっているだろうと勝手に思い込んで、何か語りかけてしまう。これは誰しもあることだろう。私の場合、これが日常茶飯事で、身近な人や友人に「え?」「何? 何のこと」「文脈わかんない」と反応されるのが常である。
だから、私の笑いは、自分の癖が誰にもあるものだと指摘されたようで、少し大げさだが、人間の面白みを感じることから来ているように思う。
馬場君と「私」の会話は、馬車の話から馬糞に移っていく。
<「あんまりそう馬糞、馬糞て、強くいわないで下さいよ」
馬場君は伏目になって苦笑いしている。(略)
「でもねえ、不思議な気がする。あんな風景、たった三十数年前のことなんだから……」
「え、三十数年前……」
馬場君はいま二十五歳。私は黙った。ちょっと黙って、当てもなく車内を見回して、右手から左手に吊革を持ち替えてみた>
そして、語り手は再び自分の世界へと落ちていく。小学2年のころ、清掃で馬糞を拾ったこと。最初は棒で拾ったが、次第に手づかみになり、人間に比べ、馬糞は物のように思えたこと。よく考えたら、工作の時間に「馬糞紙」を平気でさわっているじゃないかと。
<だけど馬糞と馬糞紙の関係については、いまになってもその真相を知らないままでいる。馬糞紙って、本当に馬糞から出来ているのだろうか。
「馬糞紙のことだけどね」
「え?」
「いや、図工なんかで使う厚紙だよ」
「あ、ボール紙でしょ」
「あ、そうだ、ボール紙だったな。ボール紙か……」
「まだ馬糞のこと考えてるんですか」
「いや、ボール紙のことなんだけどね……」
私はまた吊革を持ち替えた。ちょっと目の縁をこすってみたりした。どうもいけない。馬糞のことではないのだった。荷馬車のことなのだった。そもそも動くということなのだ」
ここは何度読んでも大笑いできる。
と私は思うのだが、どうなのか。誰もが笑えるわけではないのかもしれない。
どうもいけない、と、私も考えてしまうのだ。
=この項つづく
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新聞社の特派員としてアフリカ、ヨーロッパ、南米を渡り歩いてきた著者は、差別を乗り越えるために、自身の過去の体験を見つめ、差別とどう関わってきたか振り返ることの重要性を訴える。
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