自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

丘陵の町の尚子さん

2018年9月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 日曜日の午後、思い立って玉川学園の尚子さんを訪ねた。芸術家、赤瀬川原平さんの奥さんである。赤瀬川さんが亡くなったのは2014年10月26日。あれからもうすぐ4年である。

 「奥さん」と書くと、「そういう呼び方が女性を差別している」と思われる方もあるだろうが、尚子さんの場合、この呼び方がしっくりくる。妻、パートナーというとちょっと違和感がある。

 赤瀬川さんが亡くなった日、私は尚子さんに電話で呼び出され、かけつけた。頬の冷たくなった遺体のそばで、娘の桜子さんと尚子さんとしばらく共に過ごした。そして、夕暮れを前に南伸坊さんら友人らが集まり出し、私は遺体を安置所に運ぶ際、赤瀬川さんの頭のあたりを持つ役割を与えてもらった。

 記憶はどういうわけかその後、写真的になっている。どこかでの通夜、鎌倉の葬式、しばらく経って帝国ホテルで開かれた偲ぶ会、千葉市で開かれた赤瀬川原平展などで尚子さんのそばにいたのに、記憶に動きがなく、尚子さんの凍りついたような顔、時に涙を浮かべている横顔、無理して微笑んでいるときの目尻の赤らんだ皮膚などが写真のように止まっている。

 今回訪ねると尚子さんも「あの前後のことは全然覚えていないの」と言った。

 家に近づくと玉川学園の丘陵が見えた。奥多摩や丹沢にはちょくちょく行くので東京西部は珍しくないが、緑と家が混ざり合ったこの丘陵はここにしかない風景のように思えた。

 少し迷って、赤瀬川邸の裏側、坂の下に車をとめ、庭へと続く急な石段を上がっていくと、雑草が伸び放題で、道を塞いでいた。赤瀬川さんがいたころはきれいに刈り取られていたので、「尚子さん、やさぐれちゃったのかな」と少し心配になった。テラスに達すると、鉢植えが置いてあったが、枯れているものもあった。置かれ方もてんでばらばらで、作業の途中で放ったらかされたような、やはりやさぐれた印象があった。裏のガラス戸を開こうとすると、二つとも鍵がかかっており、これも珍しかった。前はいつも開いていたのに。

 それでもスリッパはきれいに置かれていた。「こんにちは」と何度か呼ぶと二階から尚子さんが降りてきた。

 「お久しぶりー」

 前よりもなお色が白くなり、痩せていた。張りのあった頬やおでこに刻まれた小さなシワ、耳元の微かな白髪が歳月を思わせた。それでも尚子さんは以前のように、年よりも一回り、いや20歳は若く見える。

 「あれ、藤原さん、少し変わった?」と言うので、頬の肉を掴み「太ったから」と言うと、「いや、太ったっていうより大きくなった、全体に。成長してるんじゃない、まだ」と言って、「うふふふ」と以前のままのいたずらっぽい笑い方をした。

 通されたリビングを見回すと、何もかもが赤瀬川さんがいたころのままなのに、全体にピリッとした感じがない。絵や置物が、以前は1mmの狂いもなくきちっと置かれていたのに、キュービズムの絵のように遠近やタテヨコの配分が歪み、それぞれに埃が被っているように思えた。

 3時間ほどとりとめのない話をした。赤瀬川さんの思い出、犬のこと、尚子さんが好きな沖縄、韓国語の勉強のことなど。尚子さんは最初、寂しそうな「未亡人」という感じだったが、だんだんと生き生きしてきて、前と変わらない笑顔になった。それでも、部屋全体の緊張の抜けた印象は最初のままだった。

 赤瀬川さんが生きていた2014年。意識を失い、寝たきりになっていたが、そんなことを知らない私がたまたま電話をしたら、「藤原さんなら、まっ、いいか」と思った尚子さんが、誰も受け付けなかった家に招いてくれた。それから週に2、3度の割合でお見舞いに通った。そのころ、主(あるじ)は2階のベッドで寝たきりだったのに、家全体がきちんと整い、カメラから絵から、書きかけの原稿、本までが、赤瀬川さんの分身のように真面目にきちんと正座していた。空気までがきちんとしていた。

 それが抜けたのはなぜなのか。喪に服している尚子さんが、あったときのままに放置するうちにものものから次第に緊張が抜け、正座があぐらになり、横座りになり、全体に野放図な感じになったのだろうか。

 あるいは、赤瀬川さんの死で、割とリラックスした、ゆったりと柔らかい尚子さんの感じが部屋全体を占めるようになったのか。赤瀬川さんがいたからこその尚子さんが、本来の尚子さんに戻ったということなのか。

 そんなことを考えていると、「ねえ、こんなもの受け取ってもらっても、生々しくて嫌かなと思ったんだけど、もらってもらえれば」と隣の部屋から尚子さんが何かの束を持って来た。

 赤瀬川さんの手書き原稿だった。「藤原様」と宛名が書いてある。新聞に書いていた「散歩の言い訳」という企画記事の原稿だった。字というより唐草模様のような形のひとつひとつがジョークを話す時の少し得意げな笑いのような、赤瀬川さん独特の文字が並んでいる。控えめだが自意識の強い、優しい笑い声が聞こえてきそうだ。

 「わっ、赤瀬川さんの字だ」と私が声を上げると、尚子さんは「ね、そういうのを見ると、まだ生きてて、そこからひょっと出てくるような気がするでしょ」と、締め切った作業部屋に目をやった。

 そうか、尚子さんはまだ喪中なのだ。膨大な手書き原稿と絵画、カメラやマッチ箱のコレクション。赤瀬川さんの品々に取り囲まれ、まだずっと赤瀬川さんと一緒にいるのだ。

 それだけ偉大で、忘れがたい人だった。でも、芸術家は物を残すから、残された人は大変だな、とも思った。それでも、尚子さんは決して迷惑そうではなかった。

 

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)