自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

中村先生のこと

2016年5月号掲載

毎日新聞夕刊編集部編集委員(当時)/藤原章生

 

 私が団塊の世代を知ったのは中学2年の春だった。1975年のことだ。当時、「団塊の世代」という言葉はなかったが、今から思うとあの先生は、その世代の象徴のような人だった。

 その年の春、母親が「あんた、塾に行ったら」と言い出した。私は学校の勉強をほとんどせず、不良とまではいかないが、不良っぽい級友たち4人とバンドを組み、その頭目の家でエレキギターを弾くか、映画館通いやラジオの深夜放送に明け暮れていた。塾に行ったことはあったが、勉強や教師になじめず、続かなかった。

 母親は、当時親しくしていた教育熱心な別の親に勧められ、珍しく私に、塾に行くよう促したのだ。教師は中村哲士(さとし)という九州の大牟田出身の人で、東武線の竹ノ塚駅近くの木賃アパートに住んでいた。名刺に「明治大学政治経済学部博士課程」とあった。

 獅子舞のような顔の中村先生は、散髪代をけちるのか、剛毛を肩の辺りまで伸ばし、太い声で「君はねえ……だからダメなんだ」というのが口癖だった。当時、ヒットしたかまやつひろしの「我が良き友よ」で歌われる、家庭教師のガラじゃないのに、生徒に人生などを説く男ーーを絵に描いた人だった。

 塾と言っても、中村先生の酸っぱい臭いのする部屋か、生徒の家で、2、3人が英語と数学の授業を受けるだけだ。家の場合、授業の後に晩飯を出させるのが先生の条件で、そこで必ず、「君らはねえ……」「女の人ってものはねえ……」とひとくさり語るのが常だった。

 「君、夜目、遠目、傘の中って知ってるか。女の人に最初に会うのは夜じゃない方がいいね。絶対に昼だよ。夜、暗がりで会って、次に昼に会ったりするとびっくりするからねえ……」などと一人語りをするのだが、こちらは中学2年の子供である。黙っていると、「君、どう思うんだい」などと聞いてくるので、しばらく黙った末、「昼間は化粧してるのがわかるからじゃあ……」と答えると、「甘いねえ、君。化粧かい。そう単純なものでもないんだ。女性ってのはねえ、もともと夜になると輝くようにできてるんだな。でも、なぜなのか、そこが問題なんだよ。君、どう思う」「……」「なんだい、答えられないのかい。ダメだねえ。ウジ虫君だねえ……」と、私のあだ名は早々に「ウジ虫君」になった。

 こんな一人語りもあった。

 「僕はねえ、そんなにハンサムじゃないだろう。まあ、不細工ってほどじゃないが、そんなにいい男じゃないだろう」

 「はい」

 「そんなにはっきり返事するなよ、君。気を遣えよ、少しは。まあ、でもねえ、銭湯で風呂から上がって、こう、鏡の前で自分を見るとねえ。ああ、苦み走ったいい男だなあって思うんだよ。ねえ。風呂上がりってのはなんでだろうなあ。不思議だねえ。どう思う、君」

 「はあ……」

 「はあって、君はそういうこと、ないかい」

 「……うーん、あんまり」

 「ダメだねえ、相変わらず、ウジ虫君だねえ。そういうことじゃ、女の子にもてないよ」

  教え方は特殊だった。

 英語は教科書を徹底的に暗記させた。最初は2ページ、だんだんとページを増やし、一度に10ページということもあったが、私はこれが得意だった。

 「There was a little boy in a small country in the east...」と今でも言えるのは、先生の前で何度も暗唱したためだ。大事なイディオムにさしかかると、先生は大げさなアクセントで、「put up with」と声を張り上げ、こちらも「put up with」と呼応し、「put up with」「put up with」と三度ほど互いに言い合い、先に進ませる。

 中学の定期試験ではカッコの中に前置詞を入れる問題がよく出るが、こちらは文章をすべて覚えているので間違えようがない。as soon as possible といった決まり文句も何度も唱えさせるため、中学生の頭にすっと収まる。

 数学は、証明問題を中心とした難問を宿題に出し、こちらができなかったと言うと、「ふんっ」と偉そうな顔をし、自ら解き始める。ところが、詰まることがしばしばあり、そのときは先生の強い鼻息だけがかなり長い時間、部屋に響いている。ようやく解くと、「君、答え、見てみろ」と「解答欄」を生徒にチェックさせる。正解だと知ると、「ふんっ、こんなもの」と得意げな笑顔を見せるのが常だった。つまり、先生が解くのを脇で見るのが数学の授業だった。

 中村先生に会う前、ほとんど勉強をしなかった私はクラスで中の下くらいだった。ところが、英語と数学がぐいぐい伸び、クラスで1番になったときは自分でも驚いた。そして、初めて勉強を意識した。他の科目も先生の要領で勉強をすればするほど成績が上がることを知った。

 それまでは、勉強などしてもせいぜい中の上くらいだし、そこそこの高校に行けばいいやと思い、映画や音楽など娯楽に専念していたのだ。

 中村先生の影響は他にもあった。野風増(のふうぞ)という言葉が似合う九州男児の荒っぽさ、粗野なムードにあこがれた。自分がおとなしく几帳面だったからだ。持ち物はいつもきれいにし、消しゴム一つでも曲がって置くと落ち着かない性格だった。だから中村先生の野人のような雰囲気になりたいと思った。

 元の性格は変わらないと今頃になって覚りはしたが、無理して野風増になろうとしたことで、いろいろな体験ができたわけで、性格を変えようとするのは良いとも悪いとも言えない。

 先日、団塊の世代をテーマに与えられたとき、まず浮かんだのが中村先生だった。子供を本気で論破し、得意げな顔をする人。競争の中を生きてきたせいか、何につけ熱い人だった。

 政治学を志した先生は結局、大学に残れず、九州に帰っていった。40代で病死したと、しばらくたってから知った。

 

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