自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

団塊の世代の沈黙

2017年6月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 「団塊の世代」という言い方は、作家の堺屋太一さんの発案だが、本人もここまで浸透するとは思っていなかったらしい。私もある頃までは「全共闘世代」と呼んでいたが、大学進学率が2割程度で、学生運動に関わった人はさほどいないとなれば、「団塊」の方が広くその世代に当てはまる。

 団塊とは昭和22年から24年、1947年から49年の3年間に生まれた人たちを指す。いわゆる戦後ベビーブーマーだが、欧州や米国の場合、このブームが50年代まで続き、むしろピークは50年代初頭なので、団塊は日本独特の集団と言える。

 3年間に生まれた人は約806万人に上り毎年267万から269万を推移した。団塊の前の46年が157万人、直後の50年は234万人なので、やはり突出している。私が生まれた61年も子供が多いと思っていたが、159万人で、団塊より4割強も少ない。日本人の出生数は丙午の66年を除けば、この61年が底で、その後、再び増え、団塊ジュニア(71年から74年生まれ)で二度目のピークとなり、80年からひたすら減り続け、昨年、戦後初めて100万人を割った。

 団塊は数が多い分、時代の流行や生活スタイルを引っ張ってきた。一時、「ヤング」という言葉がよく聞かれたが、これは団塊が若い頃のことだ。「ニューファミリー」「おいしい生活」と言った言葉は団塊が家族を持つようになった頃のコピーである。断絶、挫折、放浪といった言葉もこの世代が好んで使った。

 私の身内だと田舎の従兄弟ぐらいで、生活圏にはいなかった。むしろ、中学、高校時代、そして塾や予備校の若い教師たちに団塊が多く、全体の印象としては非常に熱血で、議論、と言っても相手を打ち負かすタイプの議論を好む人が少なくなかった。まだ多少なりとも戦前を引きずっていた70年代だったせいか、中には何かとビンタをしたがる全共闘上がりの女性教師もいた。

 私は落ち着きのない、いつもキョロキョロしている中高生だったため、結構、この世代の教師に睨まれたが、気に入ってくれる先生もいて、進路や趣味で刺激を受けた。中学から高校にかけ、彼らが大学生だった60年代後半に興味をもち、「全共闘運動から連合赤軍までのセクト化」についてレポートを書いたりもした。だが、その研究はなぜか、団塊世代の教員たちに冷ややかに扱われるか、「そんな事もあったなあ」と笑い飛ばされる程度だった。

 リポートを書いていたのは79年だったから、今から考えればたった10年前のことを書いていたのに、大人たちの間には、その現代史にはあまり触れたくはない、触れたとしても一種の「若気の至り」、恥ずかしいことを言い当てられたようなムードが、あの頃はあった。

 「あの時代は何だったんですか」といういった歌やテレビの特集番組が組まれ、安田講堂の映像がよく流れたのは、80年代末以降のことで、70年代後半の団塊の態度や振る舞いは、横柄ではあっても、自分たちが若者だったついこの前のことについて、沈黙を守る時期だったのではないかと今になって思う。

 折しも漫才ブームの到来で、やはり団塊ビートたけしや、ちょっと上のタモリたちが活躍するようになり、社会問題や反体制的な運動に対し、当時30代半ばの団塊の多くが距離を置いていたのではないだろうか。そんなことよりも、自分たちの個人生活をいかに「おいしい」ものにするか、育ち始めているジュニアたちをどう「のびのび」育てるか、と言っても労働時間や会社の宴会が急増した時期でもあり、ニューファミリー生活を維持するのもアップアップで、一回り下の若者たちを導くどころか、「こいつらはダメだ」「挫折を知らない」と侮るのが関の山であった。

 団塊に限らない話だが、団塊に目立つのは親子間の断絶だ。

 団塊の親たちは大正後期の生まれが多く、戦争に行ったか、行かないにしても関わった世代だ。彼らは兵士の目で見た戦争について多くを語らなかった。そして、自分たちの子供、つまり団塊世代に対する家庭教育、しつけも、自分たちが明治中期生まれの親から受けた形を踏襲できず、明らかに戸惑いがあった。

 当時のドラマや映画の決まり文句に「お父さんは非民主的だよ」という言葉があった。それをぶつけられても大正生まれの親たちは「何をー!」と暴力に走るか、黙り込むしかなかった。とうとうと、自分たちの教育の意味を語り聞かせれば、それは子供達、つまり団塊の世代が嫌う戦前を美化することになるからだ。

 団塊の親たちは、陰に陽に沈黙せざるを得ない、反省を強いられる世代だった。

 そのような親に教育された団塊は70年代、どんな家庭教育を子供に授けたのか。大正生まれの親から受けた教育を踏襲したわけではない。逆だった。外来のマニュアルや新聞雑誌、生活運動、生協に踊らされ、ジュニアを自由に、のびのび、個性的に育てようと試みた。その結果が「上から目線」を嫌い、他罰的で、何かと夢見がちな「自分探し」を求めるジュニアたちを性格づけた。

 数が多い分、「我々語り」が好きな団塊が70歳前後となった今、憤るか、イラつくか、「こんなはずではなかった」と失望しているのは、単に政治経済に不満を抱いているからではない。自分たちの親との間がそうだったように、自分たちの子との間に断絶を感じている面も強いはずだ。断絶と言うと大げさだが、要は、親のやり方に従わず、自分たちなりに実験的に試みてきた家族形成のやり方が、わずか一代限りで終わり、継続性のなさを突きつけられていることから来ているのではないだろうか。

 その少し後の世代、例えば昭和一桁世代の子供達、ポスト団塊世代の場合、まだしも家庭教育という価値観には継続性がある。

 70年代後半、30代の団塊世代が自分たちの若い頃について沈黙したのは、親の世代が戦争を語らなかったのと重なって見える。その沈黙が結局、社会に反省をもたらさず、のちの世の中のムードをより軽いものにしていったという点も、よく似ている。

 

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