自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

つきものが落ちたような感覚

2014年12月号掲載

毎日新聞地方部編集委員藤原章生(当時)

 

 ここ2週間余り、風邪で臥せっていた。のどの痛みから始まり、37度台の熱にせき、たんがともなう、典型的な風邪だが、ずいぶんと長い。風邪薬や抗生物質をのんでも完治しない。単に抵抗力が落ちているようだが、何年かに一度、こういうことがあるので今回もそのパターンだと思う。

 例えば、南アフリカや、メキシコを離れる直前、ギリシャ危機の取材が山を越えたころに、同じようなことがあった。その例から見ると、長い緊張から解けたあとに必ず起きている。熱心に仕事をして走り回っているときではなく、「そろそろ終わり」「山を越えた」という時期を選んで、このパターンはやってくる。体の方が頃合いを見て、「休め」と指令を発しているのか。精神と体を別のものと仮定した場合、精神が頑張っているときは何とか体は不承不承つき合っているが、精神に弛みが出た途端、体が「止まったな、じゃあ、もうつき合わないぜ」と勝手な行動をとる。つまり、その場にひっくり返る。そんな図が浮かぶ。

 では2、3週間ほど前、自分の精神に何か変わったことがあっただろうか。長く取材を重ね、初稿に始まり最終稿を書き上げ、毎日新聞に長期連載した企画記事「原子の森 深く」の第1部がちょうど終わったときだった。 実際に書いている期間はせいぜい1週間だが、週5回で5週間、掲載されているときにはいろいろ微調整をして、常にこの原稿が頭を占めていた。また、読者や同僚からの反響も気になった。「自分でいいと思えばいいんだ」と強がりは言っても、やはり気になる。結果的に好評だったので、特に読者からは思いのほかいい反応があったが、新聞小説のようなノンフィクションを書くという、自分にとっては新しい試みだったため、緊張の中にいたのは確かだ。

 もう一つ、大きなことがあった。ずっと見舞いに通っていた作家の赤瀬川原平さんが亡くなったのが、ちょうどその頃だ。

 10月26日の朝、妻の尚子さんから電話があり、私は昼前に町田市のご自宅を訪ね、前の日に緊急入院した病院から運ばれてきた遺体を自宅に入れ、尚子さんとその妹、そして娘の桜子さんに付き添う形で夜までいた。

 通夜はその3日後、葬式は4日後にあり、その間もいろいろ取材や締め切りがあり、急に寒くなったのもあったのだろう。葬式の翌日、気づいたら熱を出していた。

 この欄の2014年6月号から9月号まで、「赤瀬川さんの文体」という題で書いた際に触れたが、私はこの春、福島県郡山市から東京に戻ったのを機に赤瀬川さんのもとに通うようになった。11年に胃がんによる胃の全摘、12年には脳溢血で倒れ、リハビリ中でも原稿書きの仕事をしていた赤瀬川さんは13年5月に肺炎で入院し、その年の9月、就寝中にタンがのどにつまり呼吸と心臓が一時止まった。その結果、低酸素脳症となり、明確な意識がないまま寝たきりとなった。

 翌14年2月、尚子さんの強い要望で赤瀬川さんは自宅に戻り、医師や看護師、ヘルパーさんが通う形で療養を続けていた。

 4月、そんなことを何も知らずに東京に戻った私が自宅に電話をし、事情を聞いて、「じゃあ、とりあえず見舞いに行きますよ」と言ったとき、尚子さんは「あ、はい、じゃあ、来てください」と応じた。あとで聞いたところ、尚子さんは、昔の言い方で言えば「植物状態」となった夫をさらしたくないという思いに加え、自身もかなり暗くなり、毎日泣いていたため、友人や編集者からの見舞いをすべて断っていた。だが、「行きますよ」という私のあっけらかんとした声を聞き、「藤原さんなら、まあいいか」と思ったという。

 結局、それから亡くなるまでの半年間、私は計50回、通った。最初の頃は週に3回、最後の頃は1回というペースだった。

 というのも、私は8年ほど前から人に勧められ趣味で気功のマッサージをしており、マドリード在住の師、孫俊清先生(53)に相談したところ、「難しいけど、やってみらいいよ」と言われ、毎回のべ1時間ほどマッサージをしていた。

 気功のお陰かどうか、検証しようもないが、赤瀬川さんはまず顔のむくみがとれ、目の動きに安定が見られ、こちらが何か面白いことを言うとぐっと目を見開いたり、口をパクパク、反応するようなった。医師は「単なる反射だと思います」と言ったが、尚子さんの問いかけに目で反応したり、手を握り返すということはそれまでにはなかった。

 脳が劇的に回復するとは期待していなかったが、体調はかなり良くなったので、私はこのままの状態がしばらく続くと思っていた。そして練馬区の借家を引き払い、通いやすい町田方面へ引っ越そうとも考えていた。何よりも、尚子さん、桜子さんが喜び、これは不思議なのだが、寝たきりでも赤瀬川さんがいるだけで皆、明るい気分、何事も冗談に変えてしまうような緩く温かいムードが漂っているのが心地よかった。

 だが、死の1カ月前ころ、帰り道に私はふと、「回復は無理だろう。でも、家族を励ます意味は大きい」と思った瞬間があった。低酸素脳症になって1年を過ぎると、回復の確率が下がるという統計があることを知ったのもあった。

 死の翌日、「つきものが落ちた」「何か取りつかれているものが出て行った」、そんなことを一瞬感じた。直感だった。

 2週間にわたる臥せった状態はそのころから始まった。もちろんその間にもずっと原稿書きを続けているため、治るものも治らないのだが、そのころ、精神の中で何かが変わったことを認めざるを得ない。いや、それを認めた方がいいと、今は思っている。

 

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