自分が変わること

月刊「点字ジャーナル」連載コラム

「お前は自分のことしか考えていない」 

2018年7月号掲載

毎日新聞夕刊報道グループ記者(当時)/藤原章生

 

 男3人で丹沢の沢登りに行ったときのこと。私が前を歩いていると、二人のこんな会話が聞こえた。

 「いつも藤原さんに沢に連れてってもらってるんですよ。今年の冬は山スキーにも」「へえ、どこ行ったの」

 一人は山登りを始めてまもない年下の男。もう一人は学生時代からの山仲間の大阪出身の男だ。

 「谷川岳ですけど、全然登れなくて。(スキー板の裏につける)シールが初めてで、うまく使えなくて。藤原さんはすごいスピードでどんどん行っちゃいますから」「ははは、藤原、自分のことしか考えてないから」

 図星かもしれない。私は自分のことしか考えていない。自分を中心に世界は回っており、自分の世界にいるのは自分にとって意味のある人であり、常に自分にとって意味のある行動をする。

 言い訳をすれば、自分のペースで先に行ってしまうのは、誰かのそばについていても登るのは本人なので、意味はないと思っているからだ。仮に私が何か苦戦しているとき、ちょっとしたアドバイスならいいが、人にそばにいられるのはうっとうしい。

 それに、山歩きはトレーニングだと考えている。単調な歩きの場合、何も考えず心臓が破裂するまで必死に登る。沢登りも同じで、河原を歩くにしても、大股でできる限り速く歩く。それが足腰を鍛えるからだ。

 原稿も同じだ。トレーニングのつもりで日々書いている。怠った途端、衰えるとわかっているからだ。

 「じゃあ、本番はいつだ?」と聞かれれば、「本番はない。ずっとトレーニングだ」としか答えようがない。これはもう性分なので、どうしようもない。

 でも、そういう性分が、「自分のことしか考えていない」ということなのだろう。

 それでも、それを第三者に指摘されるとへこむ。自分は、自分にとって意味のある人たちに、「いい人」だと思ってもらいたい。「藤原は人のことを常に考える優しい人間だな。素晴らしい人だな」と思ってもらいたい。エゴイストというのは、響きとしてあまりよくないので、マザー・テレサとまでは言わないまでも、自分を後回しにして、常に他人のために生きている人と思われたい。

 だが、どうあがいても、そんな人にはなれない。仮になれても、「藤原は人のために尽くす男だな」という評判で心地よい気分になる自分がいるわけで、それも結局自分ではないか。

 「自分のことしか考えていない」という言葉で二人がヘラヘラ笑っているので、「なんだ、それ」と声をかけると、大阪男は「だって、お前、昔、そう言われたじゃないか」と返してきた。

 もう30年以上も前の話だ。

 大学山岳部の同期が下宿に集まり、朝まで話し込んだ。宗教団体に入ろうとする男を、大阪男と私の二人で引き止めていた。

 私は彼に岩登りを教え、その冬は彼とかなり難しいルートに行く予定だった。ところが、彼はその秋から団体のセミナーに行くようになり、宗教に染まり、ついには山をやめると言い出した。

 親や身内も巻き込んで行くその団体に入ったら、彼はもう終わりだと思い、「なあ、山に行こうぜ。やめないでくれよ」と必死に説得した。それを脇で聞いていた別の仲間が、「さっきから聞いていると、お前は自分の山登りのことしか考えていない。自分のことだけで、彼のことを、彼の人生を本気で考えてやってるわけじゃないんだ」と言い出した。「山登りなんかただの遊び、趣味じゃないか。それよりも、会の活動でカンボジアの子供を救う方がよほど大事だ」と。

 熱くなった私は反論した。

 「何、言ってんだ。自分のことをまず考えないで人のことなど救えるのか」「カンボジアの子供って言うけど、お前は目の前で見たのかよ」

 だが、「自分のことしか考えていない」が殺し文句となり、「自己愛」が「人類愛」を崩すことはできなかった。引き止め役の大阪男は「やりたいようにやらせてやるのが俺たちの努めじゃないか」と言い、結局、なし崩し的に彼を送り出す流れになった。

 彼は団体に入ると大学も辞め、我々とは一切連絡を取らなくなった。

 私は最後まで「頑張れよ」と見送る気になれなかった。彼を手放したくなかったのは、その宗教を信用していなかったからだ。入った者たちはみな、目つきがおかしかったし、親の資産まで奪われたケースもあった。

 自分のこと、山登りのことしか考えてなかったのかも知れないが、同時に彼をそこに入れたくはないという焦れる気持ちがあった。言っても詮ないことだが、自分のことだけでなく、彼のことも少しは考えていた。だから、大阪男に「自分のことだけ」と言われれば、反発する。

 じゃあ、お前は鷹揚に、涙ながらに彼を送り出し、その後の彼の消息を辿ったのか? その後の彼の末路に責任をとったのか、と。答えは聞くまでもなくノーだ。

 大阪男は優しい人間だ。猛々しく自分を押し通さない。だから、彼を引き止めることも、早々に諦めた。それは「自分のことしか考えてない」ような人間がもつ我(が)が弱いからだ。我の弱い人間は状況を変えられない。

 入信した彼が去り際に私にこう言った。

 「お前もそのうち、わかる日がくるよ」。どういう意味だったのか。自分よりも人を第一に考え、無数の人々を救う大切さ、だろうか。それとも、なぜ彼がそういう道を選んだのか、ということなのか。

 いずれにしても、私は未だにわからないままだ。

 

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